牽引

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 ペンタのおそらくデジ645が1ヶ月後に発売されるらしい。 問題は価格だが、大型レセプターの中型デジカメとして、現行の中盤のデジパックを凌げば、飛躍的に環境が変わる。要は使う人間の数だから。

 最高の技術は、衛星上で外宇宙に向けられているが、645デジタルが日常に向けられると、このプロダクトに、人も他のデバイスも牽引され、世界は変わる。
 開発を進める人々は、それなりの達成感があるだろうが、ただ、良いものが現れてから、遅延して世界が変わるのは、世の常とはいえ、なんだか物足りない。

 無論、このプロダクトの効果に全体が恩恵を受けて、気づくには、更なる遅延があるにしろ、では、そのクオリティーが、更に高性能の廉価版出力デバイス開発を促したとして、それに慣れていく人間の感覚の果てには、何が待っているというのだろうか。

 検証的な探索機器、あるいは絵画の筆のような奔放なツール、そのいずれでもない目的を孕んだとしても、実は、最後迄高性能であるのは、人間の知覚能力であったと気づいて眠りに就く時、何を思うか。溜め息ひとつか。

 コンパクトで高性能をうたったハンディーのデバイスには、限界があり、おもちゃのように使えるが、いざという時には、その程度が知れる。そういう黎明期を経て、ある種の空間をボリュームをもって抱きしめる知覚が育つ時、人間の住まう空間は随分、今のものとは変わるのではないか。などと。

 折角の素晴らしい製品出現に際して老婆心がぽつぽつ生まれる理由のひとつに、最近は、写真の捉える「空間」に興味が移行しはじめたせいもある。

ノイズのむこう

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 野外で採録したものに耳を澄ますと、音響が確かに複雑な世界を織りなしていることがわかるが、認識的にはそのほとんどをノイズとして退けて暮らしているのだろう。楽器とか、声とか、太鼓とかいった明確な音でない、いわば粒子の舞う音は、河原を転がる石ころであっても、草花の葉の擦り合う音であっても、怪物曲線の無限と同じで、気が遠くなるほど悩ましい。

 朝と昼、夜と世界音響も、おそらく気温などに影響され、あるいは、雲の高さや、気圧の配置によっても、反響が同じであることはないから、電子音や楽器の人工的な音の配列を遊ぶ合間に、でかい耳たぶをつけるような感覚で採録状態をモニターしながら歩むと、ほんの数キロの足音の脇に立ち上がりながら過ぎ去る音響に、息を凝らすようにして幾度も立ち止まっていた。

 事故のクラッシュや工事現場の破壊音、システムエラーなども、音で認識される記号のようなものになり、プラットフォームに下りれば、メロディーが流れるけれども、風の吹く、あるいは雪の降る丘に立つような、粒子の世界を生きている実感は、街中には見いだせない。と、秋葉原の採録を探してあらためて聴いてみると、面白いことに、それはそれでノイズのむこうに広がる粒子の世界であることを知るのだった。

 手を差し込みたくなるような音像空間など妄想かと思ってから、しかし盲の人びとは、音と質感でポストイメージなる世界を構築しているのだろうか。わかりようのない世界は近くにありながら、目の機能を失わなければ、こちらはどうあがいても徹底的にわからない。気まぐれに瞼を閉じても、音だけを追尾する狩猟感覚は簡単には備わらないと眼球を押さえた。

王道

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 麦わら帽子と虫取り網まで添え、親の仕草で覆われたガラス箱仕立ての採集昆虫見本やら、数冊にわたって並べられ開かれた切手収集本、普段は不器用な少年からは想像できない木工細工やらは、模造紙にマジックの書き込みと新聞雑誌の切り抜きを貼った太陽系の仕組みの研究を壁に貼るだけが精一杯の立場としては、アホかお前らと嫌悪の対象だった筈が、今や箸にも棒にもかからぬ手法を執拗に重ねて極めて細かく切り刻み延々と並べている。

 どっぷり泥沼にはまり込んでのたうち回らないとわからないことはある。みえないこともある。きこえないものもある。谷の底、井戸の底のような場所で、いよいよ草臥れかけた時、唐突に懐かしさが溢れる。これは確かあの時のものだ。まだ幼い頃から青年期までの、どうやらすべて、「もういい加減にやめろ」と絶えず邪魔をされた事事が浮かび、なぜ彼らは邪魔をするのかと首を傾げた角度に、今同じように頭を傾けている。もうやめろと若い芽を摘み取った人間も老いて、まさかここまでと諦めたか、こちらの変わらぬ膨大な時間の過ごし方を不気味に眺めるばかりとなった。

 都度の取込みの気分を優先して、観念性を廃棄したスケッチのようなここ半年の雑駁な塊に手を出したのは必要があったからだが、振り返れば200時間以上その検証と整理から仕上げに明け暮れていた。気づけば2週間が経過している。とことん取り残された浦島太郎の気分で陽射しを仰ぐと春の柔らかさがある。

 

目立たない

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 時々はっとするような目立たなさを自然に身につけたひとを見かけることがある。液晶やブラウン管では、目立つことに向かって熱狂しているようであるが、TVは一切観ないし、そういう猛進には興味が失せて久しい。

 なにをどうと説明することがむつかしいが、所作や仕草といった立ち振る舞いに、特徴があるわけではないし、体つきや顔が美形というわけでもない。ショーウインドーをなんとなくみつめているだけの、一瞬に、こちらがなぜかはっとする。

 ブスだ美人だ、イケてる、イケてないなど、人間をその外見であれこれ判断する知覚のほとんどは、自らの感性とは言えない。馬鹿馬鹿しいことだが、最近になって、なるほど、見合い結婚というものも、一理どころか、よくできた婚姻のシステムだと、その色気について考えさせられることがあった。

 認識の検証と決心のようなことをあるがままに淡々と行っていると、それによって目の前に顕われるあるいは広がる出来事も、目立たない、何気ない、変哲の無いものに落ち着く。これでいいと思うことが、まだ自身が、自然の一部になりきっていないところか。
 

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 美術館などを歩いていると、気をきかせたつもりだろう音楽が流れている時がある。そんな時は、耳を塞ぎたくなる。音など無くて結構だと腹立たしくなる。むしろ、外から聞こえる車や工事の音のほうがましだと。

 そんな日々の感想とは裏腹に、画像を克明に辿るにつれ、音響を伴わせる、併置することは、映画と同じさと遊び半分ではじめて5年がすぎた。静止画像に音響を与えることで、当初は、画面に身を乗り出し見入っていく緊張が、音響による余計なイメージの影が覆い被ることで、なにか肩をたたかれて、背を伸ばして、真剣夢中から解きほぐす効果があり、背を丸めてルーペで視覚の先端に気持を落とすことだけでは、気が狂うからと諭されもした。

 画像イメージからもそうであるなら、音に近寄りすぎている音楽家たちも、おそらくなにがしらの、自己快復のための魔除けをしなくては、音の中に沈んだまま浮いてこないのではないかなどと思う。

 いずれにしろ、現代的な音と映像のマテリアルを等価に目の前に置くということは、時代の流れからいっても、ごく平均的な仕草ではある。時にはどちらかを封印してしまいたくもなり、森の中で静かに読書が一番。と声に出すが、その響きになにか気取りが残る。

 年齢的に、祝祭的なビートは勘弁だが、デバイスの深化で拾う音響空間も拡張され、音像の解像度も、デジタルカメラと同じように、精密に届くので、これを静止画像の克明さに寄り添えることは、なんらおかしなことではない。

 けれでも、やはり人間的な仕草ではあるから、それがまた時間が経ってみれば、恣意の塊と見えるのだろう。でもまあ、それもよしと思えるようになった。最近は、この光景と音響へ知覚を預ける探求の姿勢は、遺伝子に眠る遠い日々の狩猟の残滓ではないかなどと考える。

 

 

探求のコンセンサス

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 70年代後半から世界構造の複雑化に並行して研究が枝分かれしながら進められた社会心理学で云う、フォールス・コンセンサス、あるいは、フォールス・ユニークネスという、社会において自らを、一般的である、あるいは独創的であると、誤って捉える感覚の、批判的な自省を、学究では戒めることはできないわけで、歪みの進行を、その結果と傾向を、後追いで調査することは、つまり、この「誤り」を、放置するしかなかった。

 「表象の分かりやすさ」には、この誤りを助長する傾向が顕著であり、情報のいわば、送り手の、これも知らぬうちにモードに従ったまでというフォールス・コンセンサスは、メディアに審査されることなく垂れ流しの状態が継続することで、高度成長初期の水銀などの有毒物質垂れ流しと同様、更に、社会的自己は、みえてしまうことに知らぬうちに従属され、固有な異系への、差別のようなものも生まれつつある。これは、誰も「悪化」とは認識していない。

 怒濤のような「音声」「映像」の前に、小学生の通う算数の時間と同じ吸収の姿勢を日課のように身を横たえて、翌日には、吸収したことを反芻する、「社会人」が安易に形成するコンセンサスは、だから、日課の中に育まれた「物語」「意見」などの吸収の増幅や助長に支えられているわけだ。

 コンバット18などのナショナリズムや、地球を救うNPOなどの、あらゆる現れも、この「誤り」の放置によって支えられ、同じような仕組みでパラダイムを形成している。いずれも社会人として。

 こうした澱みに打ち立てられる探求のコンセンサスは、フォールス・コンセンサスを打ち砕く軸が仕込まれて当然といえる。
 

 共感というヘンテコ曖昧な幻想を操る新興宗教は、話題としては面白いが、「共感」という感動のトリックから抜け出るには、この妄想を破壊するしかない。
 料理をつくりながら、つくった料理を食べていただく側に対して、料理人は共感を求めていない。自身の味を、突き放す様に差し出すのが筋であり、美味しいと了解を得る事があったとしても、それは、料理人の味覚への共感であるはずがない。味覚等個人的なものだからだ。いただく側は、その料理に頷くか、却下するしか選択肢はない。たかが享受にすぎない僭越が、料理人に共感したと宣うこと、これほど下卑た知覚はない。

 好奇心も、関心も、つまりは愛も、原理的に、異質、違和へ注がれるものであり、その差異の徹底的な度合いというものが、眼差しのサステナビリティのクオリティーを押し上げる。前世紀後半の、組織がらみの成長増長の傍らで、「共感せよ」と魔術が施行され、眼の前を同一化させよ、気味の悪い洗脳に似た感情移入の水に浸され続けている巷はまだ健在で、異質、違和の排除に躍起になっている。それがどれほど馬鹿げたことかは、北朝鮮をみればよい。
 合意形成(Consensus building)という多様な価値を顕在化させ、相互の意見の一致を図る過程は、価値や意見の差異を明晰にさせる意味があり、昨今ひとつのボヤキがイデオロギー的にしか響かない「持論」と位置づけられるのは、そもそもナショナルコンセンサスが、安易な共感で成立しないことを示している。

 先進社会には差異がなくなり、均一になりつつあるという示唆も、実は魔術の内に含まれる。弛緩の続行を「仕方なく」温存させる手法でしかないわけだ。
 知覚のリアリティーは、世界への慄きから発生する、生存の本能であり、鋭敏、先鋭な力の持続は、差異と違和への探索にしか培わない。一見、どこも変わらない「見かけ」を持つネイションの、実は隔離隠蔽された異質の数々へこそ、違和の知覚を与える必要がある。つまり、これは逆説的に、自らが異系、異質であると、自覚でなく知覚認識することでもある。
 あなたと私は同じではないという自明によって、争いや差別は、関心、好奇心、愛へとくるりと変わる。  

消えない痣

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 哀しみも嘆きもいったん深く刻印されて肉体の一部となれば、背中の黒子のように忘れることもある。下世話な笑いに囚われる時もあり、嘆きの失せたような感情に揉まれる時もある。ただ、刻印されつづけてているので、それは消えることはない。腹を空かして何を喰おうか街を徘徊する時、片足を引きずっていることに気がつかないようなものだ。
 所詮、この刻印の背負いは、説明のしようが無いと、最初から諦めてもいる。どんなに自らの存在以外の理由と偶然が折り重なった結果にしろ、降ってきた真下にいたというだけの素朴さで諦めている。
 その諦めは、時間の経過という事象的問題への解析放棄でもある。「もしあの時」という回想が最早何の解決にならないのと同様、積み重なるような時間の層の表象に立つ以上、粒子にならなければ、下層へ溶解浸透などできないからだ。
 だからこの「汚れちまった身体」である嘆きは、老いさらばえる肉体の現実として知覚に付随し、時に些末な条件で様々に作用する。それは月並みな痛みであったり、反射、反応の契機であったり、動機であったり、あるいはまた、それ自体が固有な文脈を形成する。故に、哀しみとか嘆きといった刻印は、歓び、怒りといった刻印と違いはない痣であって、たったひとつの痣で頓着する場合もあれば、無数の痣を変哲無い顔付で隠す輩も多い。この痣は、美しいわけでもなければ、醜いわけでもない。ただ単にそうであるだけだ。

Black Grief

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bg.jpg 2009年の初夏から取り組み始めた構想である「Black Grief」は、百数十ページに渡るメモと数十枚のスケッチを積み重ねて深い秋を迎えてようやくある種の明快さに辿り着いた。

 簡単にいってしまえば、喜怒哀楽のごった煮から、「哀」を抽出したパッケージを考えるというもので、これは、例えば同時期、小説家の平野が構想したディヴィジュアル(分人)というものに併置できるかもしれないが、性格は全く異なる。ディヴィジュアルがアバターのような対応分離の身体ツールとすれば、このパッケージは、身体から絞り出すエキスのひとつであり、互いに干渉することを停止した澱みであり、他と対応できない孤立の氷のようなもので、固有の色彩を持つ。

 もともと現実を曖昧に出鱈目に消耗するまま、成り行きに任せるような生を送ってきた反省というのも可笑しいが、個人的な経緯の総体を振り返って、喜怒哀楽にまみれた人生でしたと一言で済ますわけにはいかないと、そもそも考えた。

 いかなるものにも喩えようのない哀しみ、嘆きということは、どちらかと云えば「苦」に属するかもしれないが、自身の実直且つ時空の弁えで、まずはこれだろうと4種類からひとつを選んでいた。普段から何物かに対する憤怒に纏われたむつかしい表情をしている人間も、嬉々とした躁状態が日中降りそそぐ口元の緩んだ人間も、彼らの人生全てがそのようであるはずがない。ゆっくりとした感情の変容と流れのまま、どの淵に佇む傾向が強いか弱いかの些末な傾向なのだが、表情の表象としてアイコン化されると、傾向イコール人格とされる。彼らに共通する「哀」など無いと考えたほうがよろしい。共有の哀しみは持たないが、固有の特異な「哀」は、語られないまま抱かれてある。そのまま墓まで抱きしめていくのだろうか。大きく声をあげて笑い合った後、ふいに空しさに包まれる時もある。いたって温和な人間が、実はという話もある。では、様々なのだからさまざまであるとすれば、傾向の羅列の中に溺れるだけとなる。浮き上がって、何か精製された大気を吸ってみたいという願望があったのかもしれない。「哀」を全身に染めてみるということではなく、摘出して机の上に置く。

 残された時間を「哀」だけに注ぐつもりは毛頭無いが、戦争や抑圧など特異な状況などなかったとされる時代を過ごした人間に湧いたささやかな感情の形態として示すことは、観念で相対的に意味付けることを切断する力を持つとした。自身の「哀」を考える内に、こんなことだったかと新しく気づく事もあって、曖昧だった感覚が確かなものに変わる。

 繰り返し選ばれ残された表象が、ひたすら黒々とするしかなかったことから「黒い嘆き」とした。ここには、だから、歓びも怒りも愉悦も笑いも無い。ただひたすら「嘆き」として選ばれたものが、その言葉のままに置かれる。

手の平の球

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 幾冊ものノートには鉛筆で縦書きに書かれた几帳面な文字で、日付もない記述があった。ところどころには植物が挟まれている。

ーサーカスのライオン使いは、鞭を振るう肉体の時間によって生きている。同じような意味で私は、削り出す時間によって生きなければならないと気づいた。完全な球体に向けて、不完全な反復を叱咤する時間。ー(中略)

 山小屋は手作りの粗末なものだったが、修復を幾度も加えられており、雨水を貯める壷の外側はセメントで固められた排水の設備もあり、蛇口からは斜面の脇の沢より稚拙な設備で導かれた水が流れ出た。歩いて数分の場所には菜園があった。十年から二十年に渡って生活をしていたと考えられるが、これまでこの辺りに人が住まっていると聞いた事がない。男の遺体をこの山小屋で発見した中部森林管理局の職員は、当惑を隠さずに警察を呼んでいた。
 奇異なのは、この山小屋の存在というよりも、その小屋の中に残された夥しい数の木製の球であり、おそらく亡くなった男が削り出した彫刻のようなものと考えられたが、遺体が横たわっていたベットの下、というよりも中も、小屋の床もあるいは壁の一部もが、直径3センチから15センチほどの不揃いの、様々な樹木から削りだされたと思われる球体に溢れており、その為の道具もよく磨かれた状態で枕元に並べられていた。

 検死の結果、男は年齢75歳から85歳。鍛えられた肉体は実年齢よりも若かった。氏名、出生地などを示すものは何も見つからず、歯からも治療跡などなかった。死因は、腹部の打撲による膵臓破裂が原因とみられ、おそらく付近で滑落し怪我をしたまま小屋に戻り寝込んで数日で亡くなった。
 当初は地方新聞の記事に小さく掲載されただけだったが、残された小屋の様子の一部が雑誌記者の写真でタブロイド紙に大袈裟に取り上げられ、ニュースは奇異な男の顛末として尾ひれを付け世界を巡った挙げ句、一ヶ月後にはドイツの画廊が小屋をそのまま買い取るという展開になり、不詳の男をいくつものメディアが調査を行った。
 「現代の聖」という番組が放送されると、行方不明だった肉親かもしれないという申告が多く連絡されたが、そのどれもが亡くなった男との繋がりに根拠を欠いていた。

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