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    <title>言葉から声　</title>
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    <published>2010-07-22T23:33:41Z</published>
    <updated>2010-07-22T23:54:39Z</updated>

    <summary>ー 吉増：ちょっと脇道に入るかも知れませんが、ごめんなさい。武満徹さんが座談だっ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://picturemusic.jp/script/">
        <![CDATA[<p>ー<br />
吉増：ちょっと脇道に入るかも知れませんが、ごめんなさい。武満徹さんが座談だったかな、話していたことを思い出したんですが、「詩」っていう言葉は言偏に寺と書くでしょう。変な字ですよねえ、無意識にもなにか気になってますよね。むしろ言偏に司の方がまだなんか定まるというか楽で・ ・ ・ ・ ・</p>

<p>中沢：なんでなんでしょうかね、声明みたいなものが関係あるんでしょかね。</p>

<p>吉増：そうかもしれませんね。古代中国の屈原に「九歌」という素晴らしい作品がありますよね。ぼくはちょっと夢中になって、でこのあいだもサンフランシスコのシティライツに行って、アーサー・ウェイレイ訳の「The nine songs」を買って来て、眺めているんですが、「九歌」を読んでたり聴いたりしてて、藤堂明保氏も「これは生々しい土地の響きが残されている、そしてこの残響は・ ・ ・ 」と魅力的ないい方をされていますが、これもともと楚の人の歌で字は後からくっついたんでしょうね。それを聴いていると女の人の声がそれこそ聴こえてくるんですよね。ひとりごとか天使の声みたいに「屈原じゃないよ、これ」なんていったりしましてね。なるほど「詩」が言偏に寺と表記されるのは、後年の儒教やモラルがくっついてからの文字だなあって感じがしてました。その前の詩以前に無尽蔵に死んだ詩があったでしょうし、そういう声を漢語文化の向こうに聴き始めるというか、そういう時に来てる。ということは「詩」も「詩人」も敵というか獅子心中の虫になって来て、中沢さんのいままでいわれたことや空海論を読んでも感じるし、近藤さんの記述の問題にも感じますねえ。聴くということに非常に深く眼を沈め始めてきている。</p>

<p>ー間の思考、音 / 吉増剛造、近藤譲、中沢新一対談より抜粋 / 7,Jan,1986 / 現代詩手帳</p>]]>
        
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    <title>曖昧な話し言葉の錯乱から</title>
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    <published>2010-07-07T16:39:45Z</published>
    <updated>2010-07-07T17:07:43Z</updated>

    <summary>逃れるため、というより言語的な認識の水平面を取り戻す意味で、享受と検証の触手を折...</summary>
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        <![CDATA[<p>逃れるため、というより言語的な認識の水平面を取り戻す意味で、享受と検証の触手を折りたたんで、書棚の懐かしいような何度も捲った本を広げると、数ページを辿るだけで静かな落ちつきが降りてくる。</p>

<p>　外出の行き帰りに聴いていた音楽から、なるほど、静謐そうな場所を訪れたとしても実際は濃密でにぎやかな振動に包まれているはずだ、静寂はこのようにつくりだすものだといまさらに感心していた。</p>

<p>　放り投げて破り去ったり、誰かにくれてやったり、ゴミ箱へ消えたりせずに、ほぼ30年に渡って書棚に残った本は、確かに残された理由が、その頁に明晰に残されている。これが言葉の優れたところだと、聞こえる筈のない書き言葉を囁く作家の声に、慣れ親しんでいる錯覚がむしろ心地よい。</p>

<p>　腕前、技量、つまり道具の使い手の手並みが表象されている「本」の言葉は、読む度にこの国の言語を、言語足らしめているわけであり、それが方々へ触手を広げて目をこらし耳をすませる者にとっては、認識精神を支える港のような役割を担って、時にひどくありがたい。</p>

<p>　ロジックのつもりの会話の中の「だってそうでしょ」「ちげえよ」「まぁ」などといった話し言葉の断片の渦の中、書面化された文字言語を眺める若者の目付きが気になり、なにかあれば自筆で手紙を書いてくれというと、「じょうだんでしょ」目を丸くして笑うのだった。彼は数時間前、丁寧語はテンプレートだと言い切ってから暫く黙りこんだのだった。</p>

<p>　一見豊かな環境で育まれている優秀な青年たちに総じて言える脆弱さは、母国言語能力のような気がする。プラグマティックな動機と結果は真っすぐ繋がっているのだが、抽象の撓みがまるでない。</p>]]>
        
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    <title>複合人格交錯の不気味</title>
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    <published>2010-06-23T01:04:55Z</published>
    <updated>2010-06-23T20:27:15Z</updated>

    <summary> 　「あのひと」と恋いこがれ、性的にも精神的にも、「あの」固有なオリジナルの存在...</summary>
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        <![CDATA[<p> 　「あのひと」と恋いこがれ、性的にも精神的にも、「あの」固有なオリジナルの存在と、一対一で関係を持ちたいと願う時代は、その「関係」だけを考えれば済んだ。固有な存在さしめたのは世界の不透明な深さ広さであり、ドーナツ盤から流れる音をどのような指で奏でているのかを妄想するしかない距離（彼岸）がまずあり、その隙間が、「関係」を緊密で濃厚豊かなものとしたわけだ。この関係は取り替えがきかないので、そこに他言できないような「秘密」（密約）も生まれ、それは関係固有性の特徴を強化する機能のひとつとなる。</p>

<p>　時間さえあれば簡単に情報を取得できる、一見見通しのいいネットワークの時代となり、感受享受の行方は各々不確かであったとしても、一対一という絞られたような関係性は、手紙からメール、チャット、SNSといった、複数の視線の介入に慣れることになった。連なる言葉の口調も、誰に向かって綴られているのかさえわからない。過去の固有だった存在は、凡庸な類的情報処理に犯された、類似存在に成り下がる。「あのひと」は、どのひとでも変わらない感想を抱き、似たような欲望と関心を持ち、同じように暮らしていると類推が届くようになると、固有な存在と関係を結びたいと願う気持は消え、同類哀れみつつ、似たような幸せを送りたいと考える。</p>

<p>　「あなた」と「わたし」は、ひとつの特別な結ばれ方をしなくなる。あなた的な対象とわたし的な自己という錯覚は、よくみれば、どこも同じで似ていすぎている。つまり、類としての理念が結ばれるので、草臥れれば取り替えがきく。</p>

<p>　でもしかし、自身の血を舐めて「ひとつの存在」なんだなと自立しようとすると、その足掻きが不細工なのか、格好が悪いのかわからないが、辺り一様に生物反射痙攣のごとく失笑が起こり、総体的「悪意」が生まれる。</p>

<p>　とにかく貧相なボキャブラリーと単純なバイアスに傾いたTVを垂れ流して日常を送ることをやめ、見えていないことを見よう、聴こえない音を聴こうという気概を持つ意気地があれば、この気持悪い複合人格の罠から逃れることができる。（かもしれない）ただし逃走の土地においては、類的複合人格とは倫理の基盤が異なるので、ここで宗教戦争に似た争いが生じる可能性もある。</p>]]>
        
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    <title>高み</title>
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    <published>2010-05-30T07:40:09Z</published>
    <updated>2010-05-30T08:03:52Z</updated>

    <summary>　海抜ゼロメートルとは、こんなにも高い場所にせり出していたか。下の方まで大気も澄...</summary>
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        <![CDATA[<p>　海抜ゼロメートルとは、こんなにも高い場所にせり出していたか。下の方まで大気も澄み切って見渡せる岸壁から、海底だった下方に向けて見下ろしながら、登山家の気持ちになっていた。</p>

<p>　海洋の水がなくなり、ギアナ高地のような場所に立って、海溝の下に構築されている街の灯りなども見え、海の水を無くすとは考えたものだ。やはりここは高いなと、繰り返し思っていた。</p>

<p>　夢の中の感想を抱いたまま、埠頭を歩き、東京湾のここはそれほどでもないだろうと、夢との符号を海の色の変化に置き換えていた。</p>

<p>　海底だった下方から此処まではどういった交通の手段が考えられていただろうかと、夢の続きが、すっかり気持ちのなかでは連続ドラマの態をなしているのが可笑しい。</p>

<p>　高所恐怖と閉所恐怖を頭で考えて、だがあれも「場所の妄想」であって、恐怖の中で過ごさねば、生きねばならぬ立場であれば、恐怖よりも生存が選択され平坦な息災こそが、高地や洞窟の「場所の妄想」となる。立場が相克する場所の謂れを、ひとつに抱え込むのは土台馬鹿げているけれども、場所、あるいは土地に関して、生存が染込んだ時空を与えようとしてきたわけだと、これまでの歴史や固有名の有様が、振り返る毎に変容するに任せた。</p>

<p>　臨海に建設される蟻の塔のような集合住宅に数千単位で住まう所帯の、若い母親たちが乳児を連れて、埠頭あたりの公園に立ち海の向こうを子供と一緒に眺めている夕暮れに、その子らは、農耕の場所も狩猟の森もない「高み」で育ち、どういった生存の柵を得るのか不思議な気持ちになっていった。</p>]]>
        
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    <title>水の机</title>
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    <published>2010-05-22T13:18:36Z</published>
    <updated>2010-05-29T20:08:37Z</updated>

    <summary>　water deskというのは、インターフェイスビジョンとしての命名だったが、...</summary>
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        <![CDATA[<p>　water deskというのは、インターフェイスビジョンとしての命名だったが、今考えてみると、小学校入学時に、学校と家庭で同時にあてがわれた「私の机」という獲得の印象がまずある。培養液のような世界の中を漂いながら、はじめてとりついた島だったともいえる。憶い返せば酷い使い方をしていた。給食のパンをなぜ机の中に隠したか。担任に机をひっくり返された時、黴びた固いパンが転がり出た。おそらく制限時間内での給食完食に対する幼い知恵は、机の中に残り物を滑り隠すことしかなかったのだろう。落書きや彫刻刀による彫り込みもあった。不満だったのは、「私の机」でありながら、その所有を中途半端なものとされ、やつの管理下での使用だけを許されていたということであり、ならば日々席を自由に選んでよいはずだったと、今でも思う。</p>

<p>　机に座る他の時間がイーゼルの前となり、これも長い時間そうしていた。イーゼルをとうとう諦めた時、残ったのは机でしかなかった。今度ばかりは徹底的に「私の机」でなければならなかった。だが、これも家庭という共有空間では不要なものと蔑まれ、この「私の机」の固持が、結果的に離散、別居へと促したのだと考えられる。<br />
　青年の頃迄は、どういった形であれ、大人には「私の机」が必ずあるものだと錯覚していた。そんなものには興味の無い大人が大勢いるのだとわかった時、培養液の中を漂うこと自体でそれを謳歌している人の姿は動物園の驢馬だと感じていた。</p>

<p>　水のような揺らぐ反射面を持つ、水の机には、光景ばかりではなく、文字や言葉や、勿論物理的な変化が顕現し、時には手を洗う。<br />
　そろそろ申し分の無い「水の机」を抱きしめても良い頃だと、設計をはじめるのだった。</p>

<p>　 </p>]]>
        
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    <title>晩春</title>
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    <published>2010-05-10T17:47:48Z</published>
    <updated>2010-05-11T06:10:56Z</updated>

    <summary>　山へ向かって走り車の窓を開けて五月も半ばに届くというのに、ひと月は季節の変化が...</summary>
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        <![CDATA[<p>　山へ向かって走り車の窓を開けて五月も半ばに届くというのに、ひと月は季節の変化が遅れている山の色を眺め、ばんしゅんと言葉に出して、小津 (1903~1963)の「晩春 (1949) 」は、そうか、戦後まだ4年ということで、雪が消え流れて裸の樹々の溶けたように絡まり合う景色の、雨を待つ枯れきった、今見えているような時代だったのかもしれない。脈絡の無い戯言をつづけていた。父親役の笠智衆 (1904~1993)は、まだ当時45歳で、娘役の原節子 (1920~)と、16歳しか違わない、父親のラストシーンの確かに若すぎた印象を加えて思い浮かべた。荒廃感の消えない時代に、あの不相応な父と娘が床を並べ性的な印象を添えた小津は、自らの時代に対するささやかな恣意の楔のつもりだったのかもしれない。<br />
　実直素直な俳優がラストシーンに唯一不満を通し、それをまあいいと呑んだひとつ違いの小津の目つきも、まだ若いものに違いなかっただろうと、半世紀前の現代より人間の成熟が早い(外事情からも強要された)ふたりの男の盛んな気概を、29歳の当時としては作品の主題以上に追いつめられていたのではと勘ぐりたくなる原節子のメリハリのある気丈さと、男たちを窘めるような目つきが、この季節には確かに密やかに馴染む。と、フロントミラーに半分映り込んだ自分の顔から目を背けた。</p>

<p>　雨が降り始めれば、一斉に樹々が黒くなって隙間を埋め、旺盛な光を求めて匂い立つ祭りじみた賑わいが辺りに広がるだろうが、今年のこの長い春は、廃墟を長い時間巡り歩いているような錯覚があり、時を逆行する感覚もあり、時間の経過が停止したような日々に親しみすぎたか。<br />
　秋よりも、今かもしれないと、ぼんやりあれこれを頭に転がしたままだったから、手元の意識が薄れ、戻ってみると撮影した画像は、すべて露出オーバーで、どうやら親指でカメラの背面の露出ダイヤルをぐりぐりと知らぬうちに回していたようだ。</p>

<p>　日中は都心よりも上昇するが、夕刻から極端に下がる気温が、時間を遡行する安心感となって、ああ、まだ荒廃の中に燻り続けられると、冷たい長い夜の中ほくそ笑む。</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>塔のような</title>
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    <published>2010-05-08T11:31:29Z</published>
    <updated>2010-05-08T12:03:36Z</updated>

    <summary>モニュンメントは制作の中途で、朝早く外に出た時に、広場の真ん中に立てられたそのモ...</summary>
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        <![CDATA[<p>モニュンメントは制作の中途で、朝早く外に出た時に、広場の真ん中に立てられたそのモニュメントを、遠く離れた場所から、制作者独りが見上げている。よく知っている男だった。</p>

<p>　低緯度であることを示す鬱蒼としたジャングルが、簡素な家々の背後を取り囲み、しかし、広場のような丸い空間は、他にも点在しており、制作者から、渡された図面には、１０ほどの丸い空き地とそれを取り囲む家の図が描かれていて、彼は、此処と其処とお前のところが未完だ。と言うのだった。</p>

<p>　こちらは、石を数人で原始的に加工した浅い記憶があった。斜めに支え合う「チビタのおでん」の先っぽのようなものをまだ地面に横たえたままだったので、図面を渡した男の、爬虫類の尻尾のような彫刻の向きを、どの方角にすべきか悩んで眠れなかったという話を聞きながら、こちらはまだ何もできあがっていない焦りばかりが膨れるのだった。</p>

<p>　この村の住民は、樹々を組み上げよじ上って腰に蔦を巻き死を覚悟し飛び降りる成人の儀式を行う部族の末裔であり、今では流石に膝上で切ったジーンズをはき、コーラをラッパ飲みしロックに合わせて踊る程度で大人になる。儀式自体行われなくなったけれども、長老らしい白い髭の老人から、数人がよじのぼっても倒れぬように言いつかっていることを憶いだしていた。</p>

<p>　「赤ん坊が生まれなくなったから仕方ない」</p>

<p>　老人の呟きを聞いてから、こちらの名前を呼ばれて振り返り、さきほどの爬虫類の尻尾の塔を制作している男が、ほらと指差すので、そちらを眺めると、家々の屋根のむこうに、壊れたセスナ機の尾翼が立ち上がり、あれはないよなと、彼は笑った。<br />
　それから近寄って、互いの家族に関しての喪失を表情に漲らせてから黙り込むと、白髭の老人が、こちらふたりに向かって歩み寄り、</p>

<p>「あの世もこの世もかわらんだろ」と肩に手をおいた。<br />
 </p>]]>
        
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    <title>不透明な時間という景</title>
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    <published>2010-04-25T22:56:40Z</published>
    <updated>2010-04-25T23:24:58Z</updated>

    <summary>　Voigtländer Ultron F2 40mm SL II Aspher...</summary>
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        <![CDATA[<p>　Voigtländer Ultron F2 40mm SL II Aspherical Ai-s を学習検証。やや解放よりで得る特異な画像が、時間を圧縮し不透明なゼリーのような印象を与える。コントラストと高い解像度のピークから、被写界深度の外へ唐突に光を時間へ溶かす様子は、空間の奥行きといったことよりも、時間の変異のようなものを体感として持つことになる。この奇妙でダイナミックな運動的な要素は、標準から望遠系の明るいレンズの、所謂美麗なボケ味といったものと一線を画すると感じるのは、たとえ誤った知覚であっても構わないと思える。</p>

<p>　光景が空間である自明から、光景が時間であると光が示すということは、光の速度、光の運動がそこに示されているような気もしてくる。世界現実が、実は不透明で解析が困難な真綿でできあがっているのだと、このレンズが明かしていると重ねてから、絞れば差異を解消して、むしろ平坦な世界が現れ、それはそれで時間と空間が失せた画像となり、平面的なグラフィックの別の次元が示されるのだが、この国の「輪郭」文化へ符号しすぎて、うすっぺらな紙ものに転落するなと、このレンズ独特な「間合い」をもう少し修行せねばなるまいと考えた。</p>

<p>　もとよりこちらには「弄り壊す」性癖があり、カスタマイズとは違い、例えば買ったばかりの破綻のない完成したものを、都度台無しにしてきた。そういった性癖と、手の平に乗せて眺め続ける検証癖（これはパズルピースから別の見解を得る、例えばサスペクト探索とも似ている）が加わって、最近は、撮影衝動よりも、その結果検証に、充実感を感じはじめ、時には、こちらが撮影しなくてもいいとも感じるようになる。そうか、簡単には、性癖の「弄り壊す」ことのできない「撮影画像」が、斥力として、この性癖に拮抗しているから、こうも長い間つき合うことができるのだと腑に落ちた。</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>唐突な閃きと映画という複雑</title>
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    <published>2010-04-22T10:58:14Z</published>
    <updated>2010-04-22T11:35:01Z</updated>

    <summary>　連続する「鉛の花」といういけ好かない形であったが、ふいに辿り着いた。これでいい...</summary>
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        <![CDATA[<p>　連続する「鉛の花」といういけ好かない形であったが、ふいに辿り着いた。これでいいという安堵から身を遠ざけて、暫く眺めていた。この安上がりの唐突な「安堵」には憶えがあった。青年の頃、夜中歩き回って重く平たい青御影石を引きずって狭い部屋に持ち込み、林から切り出した手首の太さの削り出した樹々の枝を加えて滑稽な「夢中」を組み立てたものと似ていた。背後から何かその「安堵」は恥が染込まれているなと、実は自身の声と知っている呟きがあった。</p>

<p>　年齢と世代という生に支えられた自然があって、それは唐突な「安堵」とは違った文脈を既に生きている。地味に鍛えた所謂熟練の生業からふと逸れて、それまでとまるきり違った、「クレヨンの絵」を上手に描いたとして、その絵を眺める「安堵」は、小さく何か空しいことと似ている。</p>

<p>　然し、空しさまで、夢の話だった。夢は断裂して続いた。</p>

<p>　深い山の中、記憶では３人の筈だったが、４人が崩れ断層が現れた崖の前で、指先を触れ、もの静かに並んで立っている。横顔が見え、なるほど俺たちのあの頃と実に良く似ている。あんなにも若かったなどと思った。捏造が加えられるのは仕方がない映画だから。友人のひとりが監督の演出に対してそう囁いた。この国では著名な他の作品も幾つか観て知っているが初対面の監督に、この映画は何を示すのか詰め寄っていた。そして、思いがけないテーマと事実、「友人の親族の社会的な病」へ向けられていることを知り、酷く落胆する。そんなことが大切なのか。その為に俺たちはあの崖の前に立っていたわけではないと、記憶の三人へ申し出ると、ああ、あの時の事は誰にもわからない。とそれぞれが諦めて老いた表情で答えた。</p>

<p>　映画ではないが映像と、言語に近寄る記憶化へ傾いた静止画像を交互に延々と扱う時間の中、思念が捩れて生まれた夢だと思った。個別と連なりという「点と線」がモールス信号のように脳内に鎖のように打ち込まれ、その鎖の錆のようなものがドーパミンを刺激し続け、本来の細胞能力の限界を示したかと思ったが、新しく手元に広がる錆の無い連なりを見下ろせば、限界は消えたような促しに誘われる。</p>]]>
        
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    <title>Rachmaninoffのレンズ</title>
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    <published>2010-03-31T12:27:43Z</published>
    <updated>2010-04-08T19:10:29Z</updated>

    <summary>　Arthur Rubinstein (1887~1982) の、Rachman...</summary>
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        <![CDATA[<p>　Arthur Rubinstein (1887~1982) の、Rachmaninoff (Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов 1873~1943) : Prelude In C Sharp Minor, Op. 3/2, "The Bells Of Moscow" を繰り返し聴きながら、RubinsteinとRachmaninoffの年譜を辿りつつ、どういうわけか、「Rachmaninoffの(と云う)レンズ」という言葉が生まれた。言葉にとりたてた意味等ないが、ほぼ同時期を生きたふたりの人間の音がどこかレンズのように時代の光を集めてぼんやりと届けているような気は確かにした。<br />
　16歳のキエフ音楽院卒業時にピアノ協奏曲第3番を弾いた、Vladimir Samoilovich Horowitz (1903~1989)のほうが、レンズの絞りの役割のレヴェルが上のような気もするが、CDの確認は後日とした。</p>

<p><a href="http://www.youtube.com/watch?v=9lmqDOjHx70&feature=related">Horowitz(age 83) - Scarlatti Sonata L33 (Moscow 1986)</a><br />
<a href="http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=154975"> Chopin / Horowitz</a></p>

<p>　</p>]]>
        
    </content>
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    <title>すべて０からピークへ立ち上がらない</title>
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    <published>2010-03-30T07:26:10Z</published>
    <updated>2010-03-30T11:06:25Z</updated>

    <summary>　 ある顕われが印象を超えたなにがしらの感銘に触れると、これまでその顕われをもた...</summary>
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        <![CDATA[<p>　 ある顕われが印象を超えたなにがしらの感銘に触れると、これまでその顕われをもたらした人間の文脈を追うというやり方に従ってきた。これは、同じ小説家、映画監督、画家などの、固有な文脈を追って、一回の表象化の唐突な力の根源を探すようなものであり、同時に独りの人間の生を辿ることでもある。そして面白いのは、奇跡的な出会いの時に生じた「彼」を辿るきっかけとなった「感銘」は、前後に構想される「彼」の作品を知る事で、その意味合いが変容していくことであり、辿り終えて再びあの時の「感銘」を迎えようと受容の姿勢を構えると、すでにそれは独りの人間の存在自体の印象へ変換され、受け止めていた筈のエッセンスが、時には、自らの錯覚であったと自身の未熟を呪うこともある。そして呪いながらも、最初は単色に切り詰めたと見えた色彩が、細分化し層を成し、「感銘」を逸脱したような深い淵の中で、体液のような粘りになるほどと唸るわけだ。</p>

<p>　ではなぜ、意識に働きかけるべき印象的な人間の「作品」が、自らに絶えず必要なのかと考えて、簡単に云ってしまえば、翻って同様の行為者でありたいと願っているからであり、そういった働きかけという構想に囚われているともいえる。この幽閉は遺伝子の問題かもしれない。囚われていなければ終生オスはメスを、メスはオスを求めるだけの幸せに充足するかもしれない。精神に平等に働きかける薬の開発は、その処方や副作用、あるいは、常態といえるべき「精神」というもの自体、曖昧な「フィクション」のようなものだから、例えば、ストレスや精神的疾患を持つ人間にとっても、処方する側にとっても、危うい扱いとなる。<br />
　「感銘」には、倫理、物語、関係、明快なイメージと手法などが、黙示録のように端的に示される。これは、現実に対して即効性のある認識へと繋がり、抗鬱薬、抗躁薬で常態復帰を促す投薬治療の身体的改変と違った、知覚認識世界の拡大を促すものとなり、故にやめられないという中毒性がある。</p>

<p>　この中毒性を営みとして、感応する日々を送っていた外と内の媒介者であるシャーマンなどが、立場的には近い。いずれ、シャーマンと芸術家の関係も証される。</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>牽引</title>
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    <published>2010-02-19T22:35:42Z</published>
    <updated>2010-02-19T22:57:12Z</updated>

    <summary>　ペンタのおそらくデジ645が1ヶ月後に発売されるらしい。 問題は価格だが、大型...</summary>
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        <![CDATA[<p>　ペンタのおそらくデジ645が1ヶ月後に発売されるらしい。 問題は価格だが、大型レセプターの中型デジカメとして、現行の中盤のデジパックを凌げば、飛躍的に環境が変わる。要は使う人間の数だから。</p>

<p>　最高の技術は、衛星上で外宇宙に向けられているが、645デジタルが日常に向けられると、このプロダクトに、人も他のデバイスも牽引され、世界は変わる。<br />
　開発を進める人々は、それなりの達成感があるだろうが、ただ、良いものが現れてから、遅延して世界が変わるのは、世の常とはいえ、なんだか物足りない。</p>

<p>　無論、このプロダクトの効果に全体が恩恵を受けて、気づくには、更なる遅延があるにしろ、では、そのクオリティーが、更に高性能の廉価版出力デバイス開発を促したとして、それに慣れていく人間の感覚の果てには、何が待っているというのだろうか。</p>

<p>　検証的な探索機器、あるいは絵画の筆のような奔放なツール、そのいずれでもない目的を孕んだとしても、実は、最後迄高性能であるのは、人間の知覚能力であったと気づいて眠りに就く時、何を思うか。溜め息ひとつか。</p>

<p>　コンパクトで高性能をうたったハンディーのデバイスには、限界があり、おもちゃのように使えるが、いざという時には、その程度が知れる。そういう黎明期を経て、ある種の空間をボリュームをもって抱きしめる知覚が育つ時、人間の住まう空間は随分、今のものとは変わるのではないか。などと。</p>

<p>　折角の素晴らしい製品出現に際して老婆心がぽつぽつ生まれる理由のひとつに、最近は、写真の捉える「空間」に興味が移行しはじめたせいもある。</p>]]>
        
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    <title>ノイズのむこう</title>
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    <published>2010-01-29T10:27:56Z</published>
    <updated>2010-01-30T01:06:46Z</updated>

    <summary>　野外で採録したものに耳を澄ますと、音響が確かに複雑な世界を織りなしていることが...</summary>
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        <![CDATA[<p>　野外で採録したものに耳を澄ますと、音響が確かに複雑な世界を織りなしていることがわかるが、認識的にはそのほとんどをノイズとして退けて暮らしているのだろう。楽器とか、声とか、太鼓とかいった明確な音でない、いわば粒子の舞う音は、河原を転がる石ころであっても、草花の葉の擦り合う音であっても、怪物曲線の無限と同じで、気が遠くなるほど悩ましい。</p>

<p>　朝と昼、夜と世界音響も、おそらく気温などに影響され、あるいは、雲の高さや、気圧の配置によっても、反響が同じであることはないから、電子音や楽器の人工的な音の配列を遊ぶ合間に、でかい耳たぶをつけるような感覚で採録状態をモニターしながら歩むと、ほんの数キロの足音の脇に立ち上がりながら過ぎ去る音響に、息を凝らすようにして幾度も立ち止まっていた。</p>

<p>　事故のクラッシュや工事現場の破壊音、システムエラーなども、音で認識される記号のようなものになり、プラットフォームに下りれば、メロディーが流れるけれども、風の吹く、あるいは雪の降る丘に立つような、粒子の世界を生きている実感は、街中には見いだせない。と、秋葉原の採録を探してあらためて聴いてみると、面白いことに、それはそれでノイズのむこうに広がる粒子の世界であることを知るのだった。 </p>

<p>　手を差し込みたくなるような音像空間など妄想かと思ってから、しかし盲の人びとは、音と質感でポストイメージなる世界を構築しているのだろうか。わかりようのない世界は近くにありながら、目の機能を失わなければ、こちらはどうあがいても徹底的にわからない。気まぐれに瞼を閉じても、音だけを追尾する狩猟感覚は簡単には備わらないと眼球を押さえた。</p>]]>
        
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    <title>王道</title>
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    <published>2010-01-26T02:36:26Z</published>
    <updated>2010-01-26T03:48:22Z</updated>

    <summary>　麦わら帽子と虫取り網まで添え、親の仕草で覆われたガラス箱仕立ての採集昆虫見本や...</summary>
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        <![CDATA[<p>　麦わら帽子と虫取り網まで添え、親の仕草で覆われたガラス箱仕立ての採集昆虫見本やら、数冊にわたって並べられ開かれた切手収集本、普段は不器用な少年からは想像できない木工細工やらは、模造紙にマジックの書き込みと新聞雑誌の切り抜きを貼った太陽系の仕組みの研究を壁に貼るだけが精一杯の立場としては、アホかお前らと嫌悪の対象だった筈が、今や箸にも棒にもかからぬ手法を執拗に重ねて極めて細かく切り刻み延々と並べている。</p>

<p>　どっぷり泥沼にはまり込んでのたうち回らないとわからないことはある。みえないこともある。きこえないものもある。谷の底、井戸の底のような場所で、いよいよ草臥れかけた時、唐突に懐かしさが溢れる。これは確かあの時のものだ。まだ幼い頃から青年期までの、どうやらすべて、「もういい加減にやめろ」と絶えず邪魔をされた事事が浮かび、なぜ彼らは邪魔をするのかと首を傾げた角度に、今同じように頭を傾けている。もうやめろと若い芽を摘み取った人間も老いて、まさかここまでと諦めたか、こちらの変わらぬ膨大な時間の過ごし方を不気味に眺めるばかりとなった。</p>

<p>　都度の取込みの気分を優先して、観念性を廃棄したスケッチのようなここ半年の雑駁な塊に手を出したのは必要があったからだが、振り返れば200時間以上その検証と整理から仕上げに明け暮れていた。気づけば2週間が経過している。とことん取り残された浦島太郎の気分で陽射しを仰ぐと春の柔らかさがある。</p>

<p>　</p>]]>
        
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    <title>目立たない</title>
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    <published>2010-01-15T23:46:02Z</published>
    <updated>2010-01-15T23:59:09Z</updated>

    <summary>　時々はっとするような目立たなさを自然に身につけたひとを見かけることがある。液晶...</summary>
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        <![CDATA[<p>　時々はっとするような目立たなさを自然に身につけたひとを見かけることがある。液晶やブラウン管では、目立つことに向かって熱狂しているようであるが、TVは一切観ないし、そういう猛進には興味が失せて久しい。</p>

<p>　なにをどうと説明することがむつかしいが、所作や仕草といった立ち振る舞いに、特徴があるわけではないし、体つきや顔が美形というわけでもない。ショーウインドーをなんとなくみつめているだけの、一瞬に、こちらがなぜかはっとする。</p>

<p>　ブスだ美人だ、イケてる、イケてないなど、人間をその外見であれこれ判断する知覚のほとんどは、自らの感性とは言えない。馬鹿馬鹿しいことだが、最近になって、なるほど、見合い結婚というものも、一理どころか、よくできた婚姻のシステムだと、その色気について考えさせられることがあった。</p>

<p>　認識の検証と決心のようなことをあるがままに淡々と行っていると、それによって目の前に顕われるあるいは広がる出来事も、目立たない、何気ない、変哲の無いものに落ち着く。これでいいと思うことが、まだ自身が、自然の一部になりきっていないところか。<br />
　 </p>]]>
        
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