December, 2008
ペルソナ

ペルソナとしての文脈が、アバターとなって、それが虚像の衣装であるにしても、相互の視界には、ディファレンスオルタナティブとしてくっきりと存在する。こうしたデータコンテンツの、有機的な、撹拌の場所として、出会いの円卓ともいえる現実空間が必要ではある。 そこでは、情報の搾取、隠蔽といった、リミテッドデータに関する、好奇心は消え、削除されている。 変容の過程にある多種多様なロングテール・ペルソナが、孤立から逃れるような身体性を欲望し、触れ合い、あるいは犯しあい、浸透し、貫き、部分同調するための、新たな触手を見出すべき場所となる。 リミテッドオブジェクトは、プレテクストとしての基本的な現れ(モノ)に回帰し、夥しい変異するペルソナの囁きによって、これまでにない時間的な可能性を示すことになる。 場所におけるペルソナデータログのインターフェースは、映像、テキスト、音声、イメージなど、あらゆる接続に対応しつつ、リミテッドオブジェクトの現実性を検証する ような磁性を持って、リミテッドオブジェクトの周縁に粒子のように漂うことになる。 Share

Read More
Posted on 21st December 2008Comments Off on ペルソナ
言葉

言葉は書かれるものであり、読まれるものだから、本来的にパブリックなツールであるので、言葉自体を辿る側において意味を成し完結する。誰から誰に向かって渡された言葉であるのかという、固有な線を結ぶ性質を帯びる場合もあるが、その線は、徹底的に秘匿されないかぎり、いかような誤読を含んでもさまざまな地点で認識された途端、認識者のものとなる。 メモ、エッセイ、物語、手紙、日記等々、文体的には様々な形式があるにせよ、大きな錯覚は、言葉は書いたものの所有物であり、言葉を紡いだ人間の一部を成した所謂内面を形成しているという誤解である。「私は」とはじまる言葉の、「私」は、言葉となってしまった途端、「私という普遍」を示し、読む側の呟きの中で、読む人間の「私」と重なり、時に憑依して化ける。 言葉が特定の、あるいは無特定の他者に向かっている、あるいは向かっていない、そのいずれであっても、言葉は自立しており、言葉の孤立した景色を纏う。 このツールの問題の大きな点は、発声という肉体的な吐き出しを、言葉自体が持っている矛盾にある。言葉を吐き出す発音、発声という表出を、同じ肉体的な表出性で受け止めることはできないから、さきほどの誤解が生まれる。但し、兎角言葉を辿るには、実は黙読という逆転した発音が含まれており、朗読という言葉を辿る発声を聞くという、自己と他者の入り混じった状況が、日常的に、我々の知覚機能自体に在り、故に、「私」を巡る錯綜によって、肉体を喪失することもある。 いかなる雛形であろうと、発声による言葉を投げて受け止める「会話」は、こうした錯乱の上で、見事に適当に行われる。 欧米の意思表明の典型である「スピーチ」は、もともと書き言葉であり、「会話」というレヴェルの言葉ではなく、「朗読」を洗練させたものであるが、我々は「会話」でスピーチをしたり、「スピーチ」が日記記述になったりする。これは、言葉自体の持つ力を制御しようとすると、社会性自体が崩落する怖れがあるから、許容するしかない。 「俺はダメな人間だ」という言葉は、呟かれた主体を示すようで、実は共同体で共有するイメージを現前させているのであって、この言葉を発音した人間は、記憶の中の雛形から選択したにすぎなく、その選択は、「私はダメ」という事実を示すことよりも、この言葉の持つ反射に寄り添う場合がほとんどであるから、脆弱な言葉と云える。 「私は〜です」という説明も、そのほとんどは、類型への歩み寄りによる、自己投射であり、説明に終始する人間の、延々と続く言葉よりも、実は仕草や声の質、指先の動きのほうが、豊穣に人間を説明するものだ。 読む人間は、だから発音しているのであり、発音できない人間は読むことが足りないのであり、貧弱な選択肢しか得ることができない。よい言葉というものは、この発音が黙読であっても心地よいことが肝心となる。 人間の声と言葉という一見等価なものは、非常に矛盾した滑稽でもある知覚ツールといえる。そして、加えておそろしいのは、視ると視られるという視覚の知覚認識も、同様な矛盾を抱えているということだ。股の間から出て来たばかりの赤ん坊の視覚というものが我々の見えることではない。視る事の経験で視るという視覚が形成されるのであり、故に視た事のない出来事や光景に対しては、網膜に映っていても見えないということになる。説明ができないものは見えないという逆転に陥る。この錯綜を支えるのが言葉である。 Share

Read More
Posted on 8th December 2008Comments Off on 言葉