December, 2009
探求のコンセンサス

 70年代後半から世界構造の複雑化に並行して研究が枝分かれしながら進められた社会心理学で云う、フォールス・コンセンサス、あるいは、フォールス・ユニークネスという、社会において自らを、一般的である、あるいは独創的であると、誤って捉える感覚の、批判的な自省を、学究では戒めることはできないわけで、歪みの進行を、その結果と傾向を、後追いで調査することは、つまり、この「誤り」を、放置するしかなかった。  「表象の分かりやすさ」には、この誤りを助長する傾向が顕著であり、情報のいわば、送り手の、これも知らぬうちにモードに従ったまでというフォールス・コンセンサスは、メディアに審査されることなく垂れ流しの状態が継続することで、高度成長初期の水銀などの有毒物質垂れ流しと同様、更に、社会的自己は、みえてしまうことに知らぬうちに従属され、固有な異系への、差別のようなものも生まれつつある。これは、誰も「悪化」とは認識していない。  怒濤のような「音声」「映像」の前に、小学生の通う算数の時間と同じ吸収の姿勢を日課のように身を横たえて、翌日には、吸収したことを反芻する、「社会人」が安易に形成するコンセンサスは、だから、日課の中に育まれた「物語」「意見」などの吸収の増幅や助長に支えられているわけだ。  コンバット18などのナショナリズムや、地球を救うNPOなどの、あらゆる現れも、この「誤り」の放置によって支えられ、同じような仕組みでパラダイムを形成している。いずれも社会人として。  こうした澱みに打ち立てられる探求のコンセンサスは、フォールス・コンセンサスを打ち砕く軸が仕込まれて当然といえる。   Share

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Posted on 26th December 2009Comments Off on 探求のコンセンサス
共感の放棄から異質、違和へ

 共感というヘンテコ曖昧な幻想を操る新興宗教は、話題としては面白いが、「共感」という感動のトリックから抜け出るには、この妄想を破壊するしかない。  料理をつくりながら、つくった料理を食べていただく側に対して、料理人は共感を求めていない。自身の味を、突き放す様に差し出すのが筋であり、美味しいと了解を得る事があったとしても、それは、料理人の味覚への共感であるはずがない。味覚等個人的なものだからだ。いただく側は、その料理に頷くか、却下するしか選択肢はない。たかが享受にすぎない僭越が、料理人に共感したと宣うこと、これほど下卑た知覚はない。  好奇心も、関心も、つまりは愛も、原理的に、異質、違和へ注がれるものであり、その差異の徹底的な度合いというものが、眼差しのサステナビリティのクオリティーを押し上げる。前世紀後半の、組織がらみの成長増長の傍らで、「共感せよ」と魔術が施行され、眼の前を同一化させよ、気味の悪い洗脳に似た感情移入の水に浸され続けている巷はまだ健在で、異質、違和の排除に躍起になっている。それがどれほど馬鹿げたことかは、北朝鮮をみればよい。  合意形成(Consensus building)という多様な価値を顕在化させ、相互の意見の一致を図る過程は、価値や意見の差異を明晰にさせる意味があり、昨今ひとつのボヤキがイデオロギー的にしか響かない「持論」と位置づけられるのは、そもそもナショナルコンセンサスが、安易な共感で成立しないことを示している。  先進社会には差異がなくなり、均一になりつつあるという示唆も、実は魔術の内に含まれる。弛緩の続行を「仕方なく」温存させる手法でしかないわけだ。  知覚のリアリティーは、世界への慄きから発生する、生存の本能であり、鋭敏、先鋭な力の持続は、差異と違和への探索にしか培わない。一見、どこも変わらない「見かけ」を持つネイションの、実は隔離隠蔽された異質の数々へこそ、違和の知覚を与える必要がある。つまり、これは逆説的に、自らが異系、異質であると、自覚でなく知覚認識することでもある。  あなたと私は同じではないという自明によって、争いや差別は、関心、好奇心、愛へとくるりと変わる。   Share

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Posted on 12th December 2009Comments Off on 共感の放棄から異質、違和へ