ノイズのむこう
野外で採録したものに耳を澄ますと、音響が確かに複雑な世界を織りなしていることがわかるが、認識的にはそのほとんどをノイズとして退けて暮らしているのだろう。楽器とか、声とか、太鼓とかいった明確な音でない、いわば粒子の舞う音は、河原を転がる石ころであっても、草花の葉の擦り合う音であっても、怪物曲線の無限と同じで、気が遠くなるほど悩ましい。 朝と昼、夜と世界音響も、おそらく気温などに影響され、あるいは、雲の高さや、気圧の配置によっても、反響が同じであることはないから、電子音や楽器の人工的な音の配列を遊ぶ合間に、でかい耳たぶをつけるような感覚で採録状態をモニターしながら歩むと、ほんの数キロの足音の脇に立ち上がりながら過ぎ去る音響に、息を凝らすようにして幾度も立ち止まっていた。 事故のクラッシュや工事現場の破壊音、システムエラーなども、音で認識される記号のようなものになり、プラットフォームに下りれば、メロディーが流れるけれども、風の吹く、あるいは雪の降る丘に立つような、粒子の世界を生きている実感は、街中には見いだせない。と、秋葉原の採録を探してあらためて聴いてみると、面白いことに、それはそれでノイズのむこうに広がる粒子の世界であることを知るのだった。 手を差し込みたくなるような音像空間など妄想かと思ってから、しかし盲の人びとは、音と質感でポストイメージなる世界を構築しているのだろうか。わかりようのない世界は近くにありながら、目の機能を失わなければ、こちらはどうあがいても徹底的にわからない。気まぐれに瞼を閉じても、音だけを追尾する狩猟感覚は簡単には備わらないと眼球を押さえた。 Share
Read More王道
麦わら帽子と虫取り網まで添え、親の仕草で覆われたガラス箱仕立ての採集昆虫見本やら、数冊にわたって並べられ開かれた切手収集本、普段は不器用な少年からは想像できない木工細工やらは、模造紙にマジックの書き込みと新聞雑誌の切り抜きを貼った太陽系の仕組みの研究を壁に貼るだけが精一杯の立場としては、アホかお前らと嫌悪の対象だった筈が、今や箸にも棒にもかからぬ手法を執拗に重ねて極めて細かく切り刻み延々と並べている。 どっぷり泥沼にはまり込んでのたうち回らないとわからないことはある。みえないこともある。きこえないものもある。谷の底、井戸の底のような場所で、いよいよ草臥れかけた時、唐突に懐かしさが溢れる。これは確かあの時のものだ。まだ幼い頃から青年期までの、どうやらすべて、「もういい加減にやめろ」と絶えず邪魔をされた事事が浮かび、なぜ彼らは邪魔をするのかと首を傾げた角度に、今同じように頭を傾けている。もうやめろと若い芽を摘み取った人間も老いて、まさかここまでと諦めたか、こちらの変わらぬ膨大な時間の過ごし方を不気味に眺めるばかりとなった。 都度の取込みの気分を優先して、観念性を廃棄したスケッチのようなここ半年の雑駁な塊に手を出したのは必要があったからだが、振り返れば200時間以上その検証と整理から仕上げに明け暮れていた。気づけば2週間が経過している。とことん取り残された浦島太郎の気分で陽射しを仰ぐと春の柔らかさがある。 Share
Read More目立たない
時々はっとするような目立たなさを自然に身につけたひとを見かけることがある。液晶やブラウン管では、目立つことに向かって熱狂しているようであるが、TVは一切観ないし、そういう猛進には興味が失せて久しい。 なにをどうと説明することがむつかしいが、所作や仕草といった立ち振る舞いに、特徴があるわけではないし、体つきや顔が美形というわけでもない。ショーウインドーをなんとなくみつめているだけの、一瞬に、こちらがなぜかはっとする。 ブスだ美人だ、イケてる、イケてないなど、人間をその外見であれこれ判断する知覚のほとんどは、自らの感性とは言えない。馬鹿馬鹿しいことだが、最近になって、なるほど、見合い結婚というものも、一理どころか、よくできた婚姻のシステムだと、その色気について考えさせられることがあった。 認識の検証と決心のようなことをあるがままに淡々と行っていると、それによって目の前に顕われるあるいは広がる出来事も、目立たない、何気ない、変哲の無いものに落ち着く。これでいいと思うことが、まだ自身が、自然の一部になりきっていないところか。 Share
Read More音
美術館などを歩いていると、気をきかせたつもりだろう音楽が流れている時がある。そんな時は、耳を塞ぎたくなる。音など無くて結構だと腹立たしくなる。むしろ、外から聞こえる車や工事の音のほうがましだと。 そんな日々の感想とは裏腹に、画像を克明に辿るにつれ、音響を伴わせる、併置することは、映画と同じさと遊び半分ではじめて5年がすぎた。静止画像に音響を与えることで、当初は、画面に身を乗り出し見入っていく緊張が、音響による余計なイメージの影が覆い被ることで、なにか肩をたたかれて、背を伸ばして、真剣夢中から解きほぐす効果があり、背を丸めてルーペで視覚の先端に気持を落とすことだけでは、気が狂うからと諭されもした。 画像イメージからもそうであるなら、音に近寄りすぎている音楽家たちも、おそらくなにがしらの、自己快復のための魔除けをしなくては、音の中に沈んだまま浮いてこないのではないかなどと思う。 いずれにしろ、現代的な音と映像のマテリアルを等価に目の前に置くということは、時代の流れからいっても、ごく平均的な仕草ではある。時にはどちらかを封印してしまいたくもなり、森の中で静かに読書が一番。と声に出すが、その響きになにか気取りが残る。 年齢的に、祝祭的なビートは勘弁だが、デバイスの深化で拾う音響空間も拡張され、音像の解像度も、デジタルカメラと同じように、精密に届くので、これを静止画像の克明さに寄り添えることは、なんらおかしなことではない。 けれでも、やはり人間的な仕草ではあるから、それがまた時間が経ってみれば、恣意の塊と見えるのだろう。でもまあ、それもよしと思えるようになった。最近は、この光景と音響へ知覚を預ける探求の姿勢は、遺伝子に眠る遠い日々の狩猟の残滓ではないかなどと考える。 Share
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