Posted on 26th December 2009No Responses
探求のコンセンサス

 70年代後半から世界構造の複雑化に並行して研究が枝分かれしながら進められた社会心理学で云う、フォールス・コンセンサス、あるいは、フォールス・ユニークネスという、社会において自らを、一般的である、あるいは独創的であると、誤って捉える感覚の、批判的な自省を、学究では戒めることはできないわけで、歪みの進行を、その結果と傾向を、後追いで調査することは、つまり、この「誤り」を、放置するしかなかった。
 「表象の分かりやすさ」には、この誤りを助長する傾向が顕著であり、情報のいわば、送り手の、これも知らぬうちにモードに従ったまでというフォールス・コンセンサスは、メディアに審査されることなく垂れ流しの状態が継続することで、高度成長初期の水銀などの有毒物質垂れ流しと同様、更に、社会的自己は、みえてしまうことに知らぬうちに従属され、固有な異系への、差別のようなものも生まれつつある。これは、誰も「悪化」とは認識していない。
 怒濤のような「音声」「映像」の前に、小学生の通う算数の時間と同じ吸収の姿勢を日課のように身を横たえて、翌日には、吸収したことを反芻する、「社会人」が安易に形成するコンセンサスは、だから、日課の中に育まれた「物語」「意見」などの吸収の増幅や助長に支えられているわけだ。
 コンバット18などのナショナリズムや、地球を救うNPOなどの、あらゆる現れも、この「誤り」の放置によって支えられ、同じような仕組みでパラダイムを形成している。いずれも社会人として。
 こうした澱みに打ち立てられる探求のコンセンサスは、フォールス・コンセンサスを打ち砕く軸が仕込まれて当然といえる。
 

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