Posted on 13th November 2008No Responses
冬の犬

新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション、記憶に残っていること / 堀江敏幸選 がミネラルウォーターを飲むような心地よさがあったので、幾冊か選んでクレスト・ブックスを注文した。まだページを捲っていない、Winter Dog / Alistair MacLeod(1936~)の、「冬の犬」というタイトルが、街歩きの途中や、湯槽の中、食事の片付けの最中にふと浮かぶので、他のタイトルを忘れてしまうほどだった。
母方の末の弟である叔父夫婦の溺愛する犬が今年の春に病死したが、夏前に小犬を譲り受けて再び同じ名前で呼びながら飼い始めて、彼等は哀しみを乗り越えた。亡くなった犬のエルは、母親のすぐ下の長男である叔父夫婦の飼うメリーと兄妹で、メリーは年齢的に弱ってきているがまだ元気な姿を夏の終わりに見てきたばかりで、カメラにおさめたメリーを再度みつめる時間もこちらにはあった。犬好きの娘達を連れてエルとメリーに会いに行くことが、叔父達の家を尋ねる楽しみのひとつともなっている。
母親は犬嫌いを自称しているが、どうやら数十年前に自宅で飼っていたシロと呼んでいた犬が突然病死したことがトラウマとなって、噛み付くかもしれない動物に翻弄されるイメージを都度様々なシチュエーションで捏造し、私が高校生の頃、同級生から譲り受けた子犬を親元へ断って返してきなさいと眉を吊り上げたこともあり、この記憶はいまだ色あせない。
私自身の干支が犬であり、それをモチーフとした銅版画を刷ったこともある。
「冬の犬」というタイトルが、こうした私の沈んで折り畳まれた時間を刺激して、言葉として表象へ浮かび上がらせる牽引力を持ったと考えると簡単だが、日々目にする「犬」ではなく、「冬の犬」という言葉が特別であるのは、私の側に言葉に照応する何かがあったからか、あるいは言葉自体に注視を促す力があったからか、そのいずれかであるというより、言葉自体が全的に放つ現代性へと昇華する響きを、奇跡的に偶然に孕んだのだと思うことにした。

自分にとってひどく大切な事柄であるのに、何かの弊害で身から離れた場所に据え置かれ、時間ばかりが過ぎ去り、気づいてみれば言葉も生まれないような距離が広がり、あの時こうしていればと小さい後悔の念が生まれることがある。犬についても同じようなニュアンスがあった。犬は嫌いではないし、むしろ毎朝一緒に散歩できたら、どんなに楽しいだろう、癒されるだろうと考える。だが、まだこちらには生きる時間が、少なくなったが残されている。諦めることはない。犬の不在が、私にとっては、魂の一部分の欠落と結びつているかもしれないので。

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