Posted on 17th December 2010No Responses
surface and background

裏がある。と、現れの一面性を揶揄する。表裏の斥力を、善悪白黒と簡単に分離して批判する。だが実は裏がなければ困る。表だけのぺらぺらでは現れの資格がない。表出を支える理由と文脈が、類型であったりアカラサマなものを表と認めないとするならば、表の自立は世界現実という裏の構造がそのまま突き抜けているのだから、そもそも裏と表という見方がおかしいといえる。

やれ表とか裏とか、ここはみせたい。ここはみせたくないという、装丁調と手を切って、堂々と成立の骨格を露にすればよいかというと、それはそれで横暴で我侭な意味合いが強くなる。つまり道理と辻褄こそが正当であり、仕方がなかったという言い訳しかうまれない。文脈は直情的であると限らないし、メビウスの輪のような形もある。つまり明快な難渋が除外されるからだ。

現れに滲んで目立つことなく自然な成立を証す骨格が、裏方として姿を隠すのは、だからなにか古くさい美学であって、むしろ嫌らしい気取りとなる。
世代ごとの表出手法を比較すると、このあたりのバランス感覚に共通のものが見え隠れする。おそらくこれは猛烈に感受容した思春期などの時代の差異であり、楽観と悲観が繰り返される歴史のリズムのようなものと照応した結果なのだろう。

偶さか世代越境する表出は、この偏りが矯正されていることもあるが、兎角その折衷案めいた地点には、溜め息が残り混じり、なにかを諦めた証拠刻印となり、面白みに欠ける。
孤高文脈の辿りも、構築も、それ自体健やかであるとは限らないから、日常という時間、あるいは反復感にすがって、呑気に持続しないと痛い目をみる。

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