Posted on 10th January 2011No Responses
devotion

執着というと、この言葉では、何か後ろめたい黒い欲望のようなものが横にあるが、献身といってしまえば意味合いは反転する。ただし献身では宗教者の臭いがある。あるいは献身の見返りといった狡猾も顔をのぞかせる。
病とも考えていい執着心に関して、その原基なる動機、根拠など探る機会は、与えられぬまま、生理もしくは個別嗜好故という、無頓着によって遠ざけられる。

そもそもこうした傾向の理由を考えるということ自体、なにか浅ましいという文脈はないか。その「恥」が発生する見栄は、どこに由来するのか。

気づけばその度に呆れる執着を、遠く離れて考えるのはなかなか難しい。その思考そのものが執着に巻き取られるのではないかという、恐れよりも諦めがある。木の周りを回って走り溶けてしまうようなものだ。

暗黒物質(Dark Matter)の、一切との反映、関係を示さない存在が、今年あたりこの国の施設で証明される可能性があるらしい。空間の4分の1を占めるというこの「反存在」ともいうべき素粒子なのかなんなのかよくわからないが、この探求が、存在への探求執着の帰結として、存在しないものが存在するというパラドクスの展開図を広げることになる。同じように、観る執着の典型、地上ハッブルともいえる66の複眼を制御するALMA(魂)プロジェクトも、周到に準備されている。すべて人類の執着の形といっていい。執着は気概を生成するわけだ。

鬼のような執着がまだまだ足りないと、そちらへ転ぶと、確かに不満が噴出し、時間がいくらあっても足りない。

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