Posted on 14th January 2010No Responses

 美術館などを歩いていると、気をきかせたつもりだろう音楽が流れている時がある。そんな時は、耳を塞ぎたくなる。音など無くて結構だと腹立たしくなる。むしろ、外から聞こえる車や工事の音のほうがましだと。
 そんな日々の感想とは裏腹に、画像を克明に辿るにつれ、音響を伴わせる、併置することは、映画と同じさと遊び半分ではじめて5年がすぎた。静止画像に音響を与えることで、当初は、画面に身を乗り出し見入っていく緊張が、音響による余計なイメージの影が覆い被ることで、なにか肩をたたかれて、背を伸ばして、真剣夢中から解きほぐす効果があり、背を丸めてルーペで視覚の先端に気持を落とすことだけでは、気が狂うからと諭されもした。
 画像イメージからもそうであるなら、音に近寄りすぎている音楽家たちも、おそらくなにがしらの、自己快復のための魔除けをしなくては、音の中に沈んだまま浮いてこないのではないかなどと思う。
 いずれにしろ、現代的な音と映像のマテリアルを等価に目の前に置くということは、時代の流れからいっても、ごく平均的な仕草ではある。時にはどちらかを封印してしまいたくもなり、森の中で静かに読書が一番。と声に出すが、その響きになにか気取りが残る。
 年齢的に、祝祭的なビートは勘弁だが、デバイスの深化で拾う音響空間も拡張され、音像の解像度も、デジタルカメラと同じように、精密に届くので、これを静止画像の克明さに寄り添えることは、なんらおかしなことではない。
 けれでも、やはり人間的な仕草ではあるから、それがまた時間が経ってみれば、恣意の塊と見えるのだろう。でもまあ、それもよしと思えるようになった。最近は、この光景と音響へ知覚を預ける探求の姿勢は、遺伝子に眠る遠い日々の狩猟の残滓ではないかなどと考える。
 
 

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