メタフィクション
幾度か短い寓話の構想理由をたずねられて、一瞬のショット(イコン)を幻視する為とわかりにくい説明で都度済ましていたのは、写真という静止画像は性質上メタフィクションが巧妙に表象の薄皮の下に、皮膜を支える体液のような加減で横たわっており、こちらの幻視する人間の仕草の現実性を支える文脈としてフィクションを介在させたとしても、それは上等なプレテクスト(口実)と位置するからであり、ただしこの感触と把握は、実感としての根拠にしか支えられていないため、声を大きくしたくなかったからでもある。
それに、寓話自体の創出する空間は、むしろ反イコンと捉えたほうがよろしい広がりを、道具である言語が抱えるわけであり、そこから一点を抽出すること自体、欲望の交錯を遊ぶような形となり、いっそ複雑に構成されるべき時間態(映像)のほうが、相性がよろしいのは当たり前で、デコルシアの逆さまを手法化するようなこの幻視自体、暗闇に手を伸ばすだけの試みだったが、遊べば遊ぶ程、別の枝が伸びるわけだった。
パロディーやアイロニーには体質的に拒否感があり、抱きしめた方がメタフィクションへの近道になりそうなものだが、これは仕方ない。全うな現実の世界の、而も一瞬という、非人間的な、あるいは観念的にならざるを得ない「イコン」に執着することは、こうした錯乱を生きるということであり、その様は、感応的で且つ全的な癒しと救済へ向かった懺悔となる。
つまり見ることは「ワタシはみえた」という告白であり、その証は懺悔として残るというストレートな倫理の形の、どうもがいてもメタフィクションとなるという螺旋の構造を、フラットに並べてもっとあからさまにしたいわけだ。そして、その化石の骨のようなものは、「それは何か」という言及を排除切断し、物理的な動きの連動の一部としてのリアリティーをだけ示せすことができるといい。すると表象の性質は、フィクションを裏切ったドキュメント、ドキュメントを裏切っているフィクションの二つの麓を持つ峰を歩くような危ういものとなり、現実記録でしかなかった写真は、ここではじめて異系のイコンとなる。