手法と魂
マニュアルで説明することができる生成の関わりの過程は、原子力であってもプロダクトであっても音楽であっても絵画であっても建築であっても手法(メソド)であり、全く同じ結果がもたらされるわけではないにしろ誰もが同じように辿ることはできる。つまり、メソドとは道程を共有することを自明とした明解さが示されていなければ単なる混沌であり偶発を呼び寄せる実験にすぎない。
表象という、このひとつ、これと指差す、名指しの対象、固有の存在の現れは、人間が関わったものであれば、手法が透けて見えるものだが、逆説として、剥き出しの魂のような現れには、そこへいかに辿り着いたかという手法など喰い尽くしてしまったような無頓着な存在の強さが、時として現れる。
人々はいかにどうしたかとつくづく手法を語るわけだが、その手法を辿った結果の魂を目撃することはできても魂自体を語ることはなかなか簡単ではない。至った過程がそのまま表出された魂とイコールというわけではないからだ。同じ過程を辿っても、辿る関与の影響で区別され、萎えて沈んだ結果と、高揚した結果は、差異のもと併置される。
驚愕の表出となった魂の目撃が信仰めいて、祈りをそこに加える受け取りがあり、感化され「何をどうする」という魂の中に溶けた燃え滓のような曖昧な手法を憶測して辿る歩みは、既に何ものかに犯されたような、夢遊病風情となり、派生して顕われる信仰者の魂も、剥き出しの強さではなく、不健全な病に魘されたような「のようなもの」になるようだ。この場合、感応者は興奮のあまりメソドを喪失している。
過程=手法は常に問題とすべきではあるけれども、この表出における人間の位置感(立ち位置のバランス)のセンスのようなものが、手法と魂の関係を決定する。センスに恵まれないものは、いつまでもメソドを忠実に辿るだけで魂に気づかない。傲慢な魂を信じるものは、混沌を愛してメソドという広がりを無視し自閉の硬化と爆発を繰り返す。そのいずれもが人間の世界への関わりの豊穣に含まれることではあり、否定しても仕方がない。例えば、機器のメカニズムとレンズ構造や種類を網羅して尚触手を伸ばすカメラオタクが撮影した作品は、その性能を示すものでなければ彼の魂を潤さない故、実につまらない写真でしかないし、カラダの激情を光景に放出する者は、機器等興味を持つ暇はない。写真のメソドと魂の表出のバランスは、特異点で成立するものであり、その維持には反復によって成熟する時間を加える意気地も必要となる。
厖大な読みの果ての書きが小説を生むと同じ案配で、厖大なみつめの果てで見るべきことが生まれると一般には教条的に語られてきたけれども、単にある場所におけるある位置によって、ふっとセンスを授かることもある。あるいは様々なメソドの横断の結果、交差点で手にした複雑化した統合メソドを、知らずうちに辿ることもある。
土台、この世界では、皆が似た道具を手にして、似た環境に対して同じような感想を持っているにすぎないから、そのままであれば、類型こそが共有の魂と表象されるけれども、どうやらそこに、個体の傾向とこれまでの時間とこれからの時間が加わることで、差異化へ渇望が促され、固有な位置が自覚されることによって、オブラートのような社会性を突き抜ける「手法と魂」が稀に絶妙なバランスで表出される。