Posted on 29th January 2010No Responses
ノイズのむこう

 野外で採録したものに耳を澄ますと、音響が確かに複雑な世界を織りなしていることがわかるが、認識的にはそのほとんどをノイズとして退けて暮らしているのだろう。楽器とか、声とか、太鼓とかいった明確な音でない、いわば粒子の舞う音は、河原を転がる石ころであっても、草花の葉の擦り合う音であっても、怪物曲線の無限と同じで、気が遠くなるほど悩ましい。
 朝と昼、夜と世界音響も、おそらく気温などに影響され、あるいは、雲の高さや、気圧の配置によっても、反響が同じであることはないから、電子音や楽器の人工的な音の配列を遊ぶ合間に、でかい耳たぶをつけるような感覚で採録状態をモニターしながら歩むと、ほんの数キロの足音の脇に立ち上がりながら過ぎ去る音響に、息を凝らすようにして幾度も立ち止まっていた。
 事故のクラッシュや工事現場の破壊音、システムエラーなども、音で認識される記号のようなものになり、プラットフォームに下りれば、メロディーが流れるけれども、風の吹く、あるいは雪の降る丘に立つような、粒子の世界を生きている実感は、街中には見いだせない。と、秋葉原の採録を探してあらためて聴いてみると、面白いことに、それはそれでノイズのむこうに広がる粒子の世界であることを知るのだった。
 手を差し込みたくなるような音像空間など妄想かと思ってから、しかし盲の人びとは、音と質感でポストイメージなる世界を構築しているのだろうか。わかりようのない世界は近くにありながら、目の機能を失わなければ、こちらはどうあがいても徹底的にわからない。気まぐれに瞼を閉じても、音だけを追尾する狩猟感覚は簡単には備わらないと眼球を押さえた。

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