Posted on 30th March 2010No Responses
すべて0からピークへ立ち上がらない

  ある顕われが印象を超えたなにがしらの感銘に触れると、これまでその顕われをもたらした人間の文脈を追うというやり方に従ってきた。これは、同じ小説家、映画監督、画家などの、固有な文脈を追って、一回の表象化の唐突な力の根源を探すようなものであり、同時に独りの人間の生を辿ることでもある。そして面白いのは、奇跡的な出会いの時に生じた「彼」を辿るきっかけとなった「感銘」は、前後に構想される「彼」の作品を知る事で、その意味合いが変容していくことであり、辿り終えて再びあの時の「感銘」を迎えようと受容の姿勢を構えると、すでにそれは独りの人間の存在自体の印象へ変換され、受け止めていた筈のエッセンスが、時には、自らの錯覚であったと自身の未熟を呪うこともある。そして呪いながらも、最初は単色に切り詰めたと見えた色彩が、細分化し層を成し、「感銘」を逸脱したような深い淵の中で、体液のような粘りになるほどと唸るわけだ。
 ではなぜ、意識に働きかけるべき印象的な人間の「作品」が、自らに絶えず必要なのかと考えて、簡単に云ってしまえば、翻って同様の行為者でありたいと願っているからであり、そういった働きかけという構想に囚われているともいえる。この幽閉は遺伝子の問題かもしれない。囚われていなければ終生オスはメスを、メスはオスを求めるだけの幸せに充足するかもしれない。精神に平等に働きかける薬の開発は、その処方や副作用、あるいは、常態といえるべき「精神」というもの自体、曖昧な「フィクション」のようなものだから、例えば、ストレスや精神的疾患を持つ人間にとっても、処方する側にとっても、危うい扱いとなる。
 「感銘」には、倫理、物語、関係、明快なイメージと手法などが、黙示録のように端的に示される。これは、現実に対して即効性のある認識へと繋がり、抗鬱薬、抗躁薬で常態復帰を促す投薬治療の身体的改変と違った、知覚認識世界の拡大を促すものとなり、故にやめられないという中毒性がある。
 この中毒性を営みとして、感応する日々を送っていた外と内の媒介者であるシャーマンなどが、立場的には近い。いずれ、シャーマンと芸術家の関係も証される。
 

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