Posted on 26th April 2010No Responses
不透明な時間という景

 Voigtländer Ultron F2 40mm SL II Aspherical Ai-s を学習検証。やや解放よりで得る特異な画像が、時間を圧縮し不透明なゼリーのような印象を与える。コントラストと高い解像度のピークから、被写界深度の外へ唐突に光を時間へ溶かす様子は、空間の奥行きといったことよりも、時間の変異のようなものを体感として持つことになる。この奇妙でダイナミックな運動的な要素は、標準から望遠系の明るいレンズの、所謂美麗なボケ味といったものと一線を画すると感じるのは、たとえ誤った知覚であっても構わないと思える。
 光景が空間である自明から、光景が時間であると光が示すということは、光の速度、光の運動がそこに示されているような気もしてくる。世界現実が、実は不透明で解析が困難な真綿でできあがっているのだと、このレンズが明かしていると重ねてから、絞れば差異を解消して、むしろ平坦な世界が現れ、それはそれで時間と空間が失せた画像となり、平面的なグラフィックの別の次元が示されるのだが、この国の「輪郭」文化へ符号しすぎて、うすっぺらな紙ものに転落するなと、このレンズ独特な「間合い」をもう少し修行せねばなるまいと考えた。
 もとよりこちらには「弄り壊す」性癖があり、カスタマイズとは違い、例えば買ったばかりの破綻のない完成したものを、都度台無しにしてきた。そういった性癖と、手の平に乗せて眺め続ける検証癖(これはパズルピースから別の見解を得る、例えばサスペクト探索とも似ている)が加わって、最近は、撮影衝動よりも、その結果検証に、充実感を感じはじめ、時には、こちらが撮影しなくてもいいとも感じるようになる。そうか、簡単には、性癖の「弄り壊す」ことのできない「撮影画像」が、斥力として、この性癖に拮抗しているから、こうも長い間つき合うことができるのだと腑に落ちた。
 

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