Posted on 30th May 2010No Responses
高み

 海抜ゼロメートルとは、こんなにも高い場所にせり出していたか。下の方まで大気も澄み切って見渡せる岸壁から、海底だった下方に向けて見下ろしながら、登山家の気持ちになっていた。
 海洋の水がなくなり、ギアナ高地のような場所に立って、海溝の下に構築されている街の灯りなども見え、海の水を無くすとは考えたものだ。やはりここは高いなと、繰り返し思っていた。
 夢の中の感想を抱いたまま、埠頭を歩き、東京湾のここはそれほどでもないだろうと、夢との符号を海の色の変化に置き換えていた。
 海底だった下方から此処まではどういった交通の手段が考えられていただろうかと、夢の続きが、すっかり気持ちのなかでは連続ドラマの態をなしているのが可笑しい。
 高所恐怖と閉所恐怖を頭で考えて、だがあれも「場所の妄想」であって、恐怖の中で過ごさねば、生きねばならぬ立場であれば、恐怖よりも生存が選択され平坦な息災こそが、高地や洞窟の「場所の妄想」となる。立場が相克する場所の謂れを、ひとつに抱え込むのは土台馬鹿げているけれども、場所、あるいは土地に関して、生存が染込んだ時空を与えようとしてきたわけだと、これまでの歴史や固有名の有様が、振り返る毎に変容するに任せた。
 臨海に建設される蟻の塔のような集合住宅に数千単位で住まう所帯の、若い母親たちが乳児を連れて、埠頭あたりの公園に立ち海の向こうを子供と一緒に眺めている夕暮れに、その子らは、農耕の場所も狩猟の森もない「高み」で育ち、どういった生存の柵を得るのか不思議な気持ちになっていった。

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