複合人格交錯の不気味
「あのひと」と恋いこがれ、性的にも精神的にも、「あの」固有なオリジナルの存在と、一対一で関係を持ちたいと願う時代は、その「関係」だけを考えれば済んだ。固有な存在さしめたのは世界の不透明な深さ広さであり、ドーナツ盤から流れる音をどのような指で奏でているのかを妄想するしかない距離(彼岸)がまずあり、その隙間が、「関係」を緊密で濃厚豊かなものとしたわけだ。この関係は取り替えがきかないので、そこに他言できないような「秘密」(密約)も生まれ、それは関係固有性の特徴を強化する機能のひとつとなる。
時間さえあれば簡単に情報を取得できる、一見見通しのいいネットワークの時代となり、感受享受の行方は各々不確かであったとしても、一対一という絞られたような関係性は、手紙からメール、チャット、SNSといった、複数の視線の介入に慣れることになった。連なる言葉の口調も、誰に向かって綴られているのかさえわからない。過去の固有だった存在は、凡庸な類的情報処理に犯された、類似存在に成り下がる。「あのひと」は、どのひとでも変わらない感想を抱き、似たような欲望と関心を持ち、同じように暮らしていると類推が届くようになると、固有な存在と関係を結びたいと願う気持は消え、同類哀れみつつ、似たような幸せを送りたいと考える。
「あなた」と「わたし」は、ひとつの特別な結ばれ方をしなくなる。あなた的な対象とわたし的な自己という錯覚は、よくみれば、どこも同じで似ていすぎている。つまり、類としての理念が結ばれるので、草臥れれば取り替えがきく。
でもしかし、自身の血を舐めて「ひとつの存在」なんだなと自立しようとすると、その足掻きが不細工なのか、格好が悪いのかわからないが、辺り一様に生物反射痙攣のごとく失笑が起こり、総体的「悪意」が生まれる。
とにかく貧相なボキャブラリーと単純なバイアスに傾いたTVを垂れ流して日常を送ることをやめ、見えていないことを見よう、聴こえない音を聴こうという気概を持つ意気地があれば、この気持悪い複合人格の罠から逃れることができる。(かもしれない)ただし逃走の土地においては、類的複合人格とは倫理の基盤が異なるので、ここで宗教戦争に似た争いが生じる可能性もある。