曖昧な話し言葉の錯乱から
逃れるため、というより言語的な認識の水平面を取り戻す意味で、享受と検証の触手を折りたたんで、書棚の懐かしいような何度も捲った本を広げると、数ページを辿るだけで静かな落ちつきが降りてくる。
外出の行き帰りに聴いていた音楽から、なるほど、静謐そうな場所を訪れたとしても実際は濃密でにぎやかな振動に包まれているはずだ、静寂はこのようにつくりだすものだといまさらに感心していた。
放り投げて破り去ったり、誰かにくれてやったり、ゴミ箱へ消えたりせずに、ほぼ30年に渡って書棚に残った本は、確かに残された理由が、その頁に明晰に残されている。これが言葉の優れたところだと、聞こえる筈のない書き言葉を囁く作家の声に、慣れ親しんでいる錯覚がむしろ心地よい。
腕前、技量、つまり道具の使い手の手並みが表象されている「本」の言葉は、読む度にこの国の言語を、言語足らしめているわけであり、それが方々へ触手を広げて目をこらし耳をすませる者にとっては、認識精神を支える港のような役割を担って、時にひどくありがたい。
ロジックのつもりの会話の中の「だってそうでしょ」「ちげえよ」「まぁ」などといった話し言葉の断片の渦の中、書面化された文字言語を眺める若者の目付きが気になり、なにかあれば自筆で手紙を書いてくれというと、「じょうだんでしょ」目を丸くして笑うのだった。彼は数時間前、丁寧語はテンプレートだと言い切ってから暫く黙りこんだのだった。
一見豊かな環境で育まれている優秀な青年たちに総じて言える脆弱さは、母国言語能力のような気がする。プラグマティックな動機と結果は真っすぐ繋がっているのだが、抽象の撓みがまるでない。