言葉から声
ー
吉増:ちょっと脇道に入るかも知れませんが、ごめんなさい。武満徹さんが座談だったかな、話していたことを思い出したんですが、「詩」っていう言葉は言偏に寺と書くでしょう。変な字ですよねえ、無意識にもなにか気になってますよね。むしろ言偏に司の方がまだなんか定まるというか楽で・ ・ ・ ・ ・
中沢:なんでなんでしょうかね、声明みたいなものが関係あるんでしょかね。
吉増:そうかもしれませんね。古代中国の屈原に「九歌」という素晴らしい作品がありますよね。ぼくはちょっと夢中になって、でこのあいだもサンフランシスコのシティライツに行って、アーサー・ウェイレイ訳の「The nine songs」を買って来て、眺めているんですが、「九歌」を読んでたり聴いたりしてて、藤堂明保氏も「これは生々しい土地の響きが残されている、そしてこの残響は・ ・ ・ 」と魅力的ないい方をされていますが、これもともと楚の人の歌で字は後からくっついたんでしょうね。それを聴いていると女の人の声がそれこそ聴こえてくるんですよね。ひとりごとか天使の声みたいに「屈原じゃないよ、これ」なんていったりしましてね。なるほど「詩」が言偏に寺と表記されるのは、後年の儒教やモラルがくっついてからの文字だなあって感じがしてました。その前の詩以前に無尽蔵に死んだ詩があったでしょうし、そういう声を漢語文化の向こうに聴き始めるというか、そういう時に来てる。ということは「詩」も「詩人」も敵というか獅子心中の虫になって来て、中沢さんのいままでいわれたことや空海論を読んでも感じるし、近藤さんの記述の問題にも感じますねえ。聴くということに非常に深く眼を沈め始めてきている。
ー間の思考、音 / 吉増剛造、近藤譲、中沢新一対談より抜粋 / 7,Jan,1986 / 現代詩手帳