幾度もあの時
性分なのだと諦めている。過去を季節で区切って画像を振り返り、振り返る度に選んだものと重複しても、そうでなくても、とにかくすべてに現在の眼差しを与えないと気が済まない。同時に現像もやり直すので、ささやかなタイムトラベルを繰り返す傍観者の心地に満たされ、見えることで蘇る些末な事柄を巡らせている。要するにこれは、ひとつのメソドにすぎない。大工が鑿を研ぐようなことだ。ただ大工と違うのは、この振り返りにシャッターが押される根拠と動機があるのであって、他でないという点が大きく異なる。
不思議なもので、後戻りできない時間を繰り返すようなこの仕方にも、いい加減に慣れていいようなものだが、どこにどうやって慣れていいのかわからない。これは、都度更新される現時点という眼があるからで、時に怯えるようなこの目つきは、成熟しているのだろうかと不安げでもあり、同時にこの戸惑いを含んだ目元の持続が肝心と、腹の中では戒め終えている。
あの光景の場所へ再び立とうと考えても、あの時とは全く異なった光景を前にすることもわかっているから、光の再現を願う気持などない。
こうした眺めの営みによって、幾度も気づかされることは、やはり見えていなかった、見えなかった光景の、現在への蘇り方という顕われであり、固有な関わりが溶けかかる気配のようなものだ。
この気配は、誰も立ち止まらないけれども、知らずのうちに知覚に収めている、経験の把握のようなものなのかもしれない。
いずれにしろ、劇的な仕立てと道具の使い方によって、恣意を昇華させる短絡を避けて除けば、振り向いたことも忘れる路傍のニュアンスに、その時は見えなくても、気配に感応したまま、検証の眼(レンズ)を向けることしかできない。