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煮込み料理

野菜をどうぞ持っていってといただくことが多いので、じゃがいもにしろ白菜にしろキャベツにしろ人参、タマネギにしろとにかく刻んで煮込むカレーやらシチューやらスープやらにする機会が増えた。蒜を必ず添えて煮込み、気分的に肉や魚は稀に添えるので、主にいわば野菜ポトフという基本に味を加える。ライスでもパンでもよいが、煮込んだもの自体のみで食事が済むことがあり、これを好むようになった。 Share

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Posted on 24th November 2011Comments Off on 煮込み料理
体感

身体の自己受容感覚知覚は成熟変異する。特に視覚は視力の低下とは関係なく、見えること自体の体感というものの変容は凄まじく面白い。ただこれも、身体の鍛錬の賜物であることは間違いない。言語と同じ。使わねば萎えて朽ちるばかりだ。味覚触覚も鍛えたいが、当面は視覚と聴覚を率先するのが、こちらの文脈のようだ。特にこの国の言語は視覚と聴覚にまたがって変容するので、なるほど、ビジュアルと音響の隙間に置かれる。 Share

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Posted on 22nd January 2011Comments Off on 体感
devotion

執着というと、この言葉では、何か後ろめたい黒い欲望のようなものが横にあるが、献身といってしまえば意味合いは反転する。ただし献身では宗教者の臭いがある。あるいは献身の見返りといった狡猾も顔をのぞかせる。 病とも考えていい執着心に関して、その原基なる動機、根拠など探る機会は、与えられぬまま、生理もしくは個別嗜好故という、無頓着によって遠ざけられる。 そもそもこうした傾向の理由を考えるということ自体、なにか浅ましいという文脈はないか。その「恥」が発生する見栄は、どこに由来するのか。 気づけばその度に呆れる執着を、遠く離れて考えるのはなかなか難しい。その思考そのものが執着に巻き取られるのではないかという、恐れよりも諦めがある。木の周りを回って走り溶けてしまうようなものだ。 暗黒物質(Dark Matter)の、一切との反映、関係を示さない存在が、今年あたりこの国の施設で証明される可能性があるらしい。空間の4分の1を占めるというこの「反存在」ともいうべき素粒子なのかなんなのかよくわからないが、この探求が、存在への探求執着の帰結として、存在しないものが存在するというパラドクスの展開図を広げることになる。同じように、観る執着の典型、地上ハッブルともいえる66の複眼を制御するALMA(魂)プロジェクトも、周到に準備されている。すべて人類の執着の形といっていい。執着は気概を生成するわけだ。 鬼のような執着がまだまだ足りないと、そちらへ転ぶと、確かに不満が噴出し、時間がいくらあっても足りない。 Share

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Posted on 10th January 2011Comments Off on devotion
surface and background

裏がある。と、現れの一面性を揶揄する。表裏の斥力を、善悪白黒と簡単に分離して批判する。だが実は裏がなければ困る。表だけのぺらぺらでは現れの資格がない。表出を支える理由と文脈が、類型であったりアカラサマなものを表と認めないとするならば、表の自立は世界現実という裏の構造がそのまま突き抜けているのだから、そもそも裏と表という見方がおかしいといえる。 やれ表とか裏とか、ここはみせたい。ここはみせたくないという、装丁調と手を切って、堂々と成立の骨格を露にすればよいかというと、それはそれで横暴で我侭な意味合いが強くなる。つまり道理と辻褄こそが正当であり、仕方がなかったという言い訳しかうまれない。文脈は直情的であると限らないし、メビウスの輪のような形もある。つまり明快な難渋が除外されるからだ。 現れに滲んで目立つことなく自然な成立を証す骨格が、裏方として姿を隠すのは、だからなにか古くさい美学であって、むしろ嫌らしい気取りとなる。 世代ごとの表出手法を比較すると、このあたりのバランス感覚に共通のものが見え隠れする。おそらくこれは猛烈に感受容した思春期などの時代の差異であり、楽観と悲観が繰り返される歴史のリズムのようなものと照応した結果なのだろう。 偶さか世代越境する表出は、この偏りが矯正されていることもあるが、兎角その折衷案めいた地点には、溜め息が残り混じり、なにかを諦めた証拠刻印となり、面白みに欠ける。 孤高文脈の辿りも、構築も、それ自体健やかであるとは限らないから、日常という時間、あるいは反復感にすがって、呑気に持続しないと痛い目をみる。 Share

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Posted on 17th December 2010Comments Off on surface and background
メタフィクション

幾度か短い寓話の構想理由をたずねられて、一瞬のショット(イコン)を幻視する為とわかりにくい説明で都度済ましていたのは、写真という静止画像は性質上メタフィクションが巧妙に表象の薄皮の下に、皮膜を支える体液のような加減で横たわっており、こちらの幻視する人間の仕草の現実性を支える文脈としてフィクションを介在させたとしても、それは上等なプレテクスト(口実)と位置するからであり、ただしこの感触と把握は、実感としての根拠にしか支えられていないため、声を大きくしたくなかったからでもある。 それに、寓話自体の創出する空間は、むしろ反イコンと捉えたほうがよろしい広がりを、道具である言語が抱えるわけであり、そこから一点を抽出すること自体、欲望の交錯を遊ぶような形となり、いっそ複雑に構成されるべき時間態(映像)のほうが、相性がよろしいのは当たり前で、デコルシアの逆さまを手法化するようなこの幻視自体、暗闇に手を伸ばすだけの試みだったが、遊べば遊ぶ程、別の枝が伸びるわけだった。 パロディーやアイロニーには体質的に拒否感があり、抱きしめた方がメタフィクションへの近道になりそうなものだが、これは仕方ない。全うな現実の世界の、而も一瞬という、非人間的な、あるいは観念的にならざるを得ない「イコン」に執着することは、こうした錯乱を生きるということであり、その様は、感応的で且つ全的な癒しと救済へ向かった懺悔となる。 つまり見ることは「ワタシはみえた」という告白であり、その証は懺悔として残るというストレートな倫理の形の、どうもがいてもメタフィクションとなるという螺旋の構造を、フラットに並べてもっとあからさまにしたいわけだ。そして、その化石の骨のようなものは、「それは何か」という言及を排除切断し、物理的な動きの連動の一部としてのリアリティーをだけ示せすことができるといい。すると表象の性質は、フィクションを裏切ったドキュメント、ドキュメントを裏切っているフィクションの二つの麓を持つ峰を歩くような危ういものとなり、現実記録でしかなかった写真は、ここではじめて異系のイコンとなる。 Share

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Posted on 14th November 2010Comments Off on メタフィクション
手法と魂

マニュアルで説明することができる生成の関わりの過程は、原子力であってもプロダクトであっても音楽であっても絵画であっても建築であっても手法(メソド)であり、全く同じ結果がもたらされるわけではないにしろ誰もが同じように辿ることはできる。つまり、メソドとは道程を共有することを自明とした明解さが示されていなければ単なる混沌であり偶発を呼び寄せる実験にすぎない。 表象という、このひとつ、これと指差す、名指しの対象、固有の存在の現れは、人間が関わったものであれば、手法が透けて見えるものだが、逆説として、剥き出しの魂のような現れには、そこへいかに辿り着いたかという手法など喰い尽くしてしまったような無頓着な存在の強さが、時として現れる。 人々はいかにどうしたかとつくづく手法を語るわけだが、その手法を辿った結果の魂を目撃することはできても魂自体を語ることはなかなか簡単ではない。至った過程がそのまま表出された魂とイコールというわけではないからだ。同じ過程を辿っても、辿る関与の影響で区別され、萎えて沈んだ結果と、高揚した結果は、差異のもと併置される。 驚愕の表出となった魂の目撃が信仰めいて、祈りをそこに加える受け取りがあり、感化され「何をどうする」という魂の中に溶けた燃え滓のような曖昧な手法を憶測して辿る歩みは、既に何ものかに犯されたような、夢遊病風情となり、派生して顕われる信仰者の魂も、剥き出しの強さではなく、不健全な病に魘されたような「のようなもの」になるようだ。この場合、感応者は興奮のあまりメソドを喪失している。 過程=手法は常に問題とすべきではあるけれども、この表出における人間の位置感(立ち位置のバランス)のセンスのようなものが、手法と魂の関係を決定する。センスに恵まれないものは、いつまでもメソドを忠実に辿るだけで魂に気づかない。傲慢な魂を信じるものは、混沌を愛してメソドという広がりを無視し自閉の硬化と爆発を繰り返す。そのいずれもが人間の世界への関わりの豊穣に含まれることではあり、否定しても仕方がない。例えば、機器のメカニズムとレンズ構造や種類を網羅して尚触手を伸ばすカメラオタクが撮影した作品は、その性能を示すものでなければ彼の魂を潤さない故、実につまらない写真でしかないし、カラダの激情を光景に放出する者は、機器等興味を持つ暇はない。写真のメソドと魂の表出のバランスは、特異点で成立するものであり、その維持には反復によって成熟する時間を加える意気地も必要となる。 厖大な読みの果ての書きが小説を生むと同じ案配で、厖大なみつめの果てで見るべきことが生まれると一般には教条的に語られてきたけれども、単にある場所におけるある位置によって、ふっとセンスを授かることもある。あるいは様々なメソドの横断の結果、交差点で手にした複雑化した統合メソドを、知らずうちに辿ることもある。 土台、この世界では、皆が似た道具を手にして、似た環境に対して同じような感想を持っているにすぎないから、そのままであれば、類型こそが共有の魂と表象されるけれども、どうやらそこに、個体の傾向とこれまでの時間とこれからの時間が加わることで、差異化へ渇望が促され、固有な位置が自覚されることによって、オブラートのような社会性を突き抜ける「手法と魂」が稀に絶妙なバランスで表出される。 Share

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Posted on 8th November 2010Comments Off on 手法と魂
幾度もあの時

性分なのだと諦めている。過去を季節で区切って画像を振り返り、振り返る度に選んだものと重複しても、そうでなくても、とにかくすべてに現在の眼差しを与えないと気が済まない。同時に現像もやり直すので、ささやかなタイムトラベルを繰り返す傍観者の心地に満たされ、見えることで蘇る些末な事柄を巡らせている。要するにこれは、ひとつのメソドにすぎない。大工が鑿を研ぐようなことだ。ただ大工と違うのは、この振り返りにシャッターが押される根拠と動機があるのであって、他でないという点が大きく異なる。 不思議なもので、後戻りできない時間を繰り返すようなこの仕方にも、いい加減に慣れていいようなものだが、どこにどうやって慣れていいのかわからない。これは、都度更新される現時点という眼があるからで、時に怯えるようなこの目つきは、成熟しているのだろうかと不安げでもあり、同時にこの戸惑いを含んだ目元の持続が肝心と、腹の中では戒め終えている。 あの光景の場所へ再び立とうと考えても、あの時とは全く異なった光景を前にすることもわかっているから、光の再現を願う気持などない。 こうした眺めの営みによって、幾度も気づかされることは、やはり見えていなかった、見えなかった光景の、現在への蘇り方という顕われであり、固有な関わりが溶けかかる気配のようなものだ。 この気配は、誰も立ち止まらないけれども、知らずのうちに知覚に収めている、経験の把握のようなものなのかもしれない。 いずれにしろ、劇的な仕立てと道具の使い方によって、恣意を昇華させる短絡を避けて除けば、振り向いたことも忘れる路傍のニュアンスに、その時は見えなくても、気配に感応したまま、検証の眼(レンズ)を向けることしかできない。 Share

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Posted on 13th October 2010Comments Off on 幾度もあの時